第19話 あなた(信長)がさがしてくれるの待つわ。

(天文22年 (1553年)6月11日)

翌朝、信長は予定通りに篠木三郷に向けて朝駆けを行った。

林-秀貞はやし-ひでさだに通達してあったので、道案内には (林)通忠みちだたが遣わされた。


「おはようございます」

「よろしく頼む」

「お任せ下さい。信長様の安全は我が林家がお守り致します」


篠木三郷は土岐川(庄内川)の右岸、春日井東部から小牧にわたる広い地域になる。

林家の祖先は春日郡にやって来て、荒れた土地を開墾、水路を開いて地域の農業の振興に代々努めたと言う。

応永年間(1394-1428)の頃に林家を名乗るようになった。

この祖先伝来の土地を奪うとか言い出せば、林家であっても信長を裏切ると言い出すに違いない。

前田利昌の荒子城、中川弥兵衛の米野城、梶川五左衛門秀盛の大脇城などを与力に持つ林家が叛旗を翻すと非常に拙い。

魯坊丸は信長に口煩く言って聞かせていた。

信長は首を捻る。

先祖代々の土地も新領の土地も土地は土地だ。

土地に違いはない。

そこまで拘る必要があるのか?

信長はその辺りが腑に落ちない。


「すべて、林家のものなのか?」

「まさか、それは無理でございます」

「であるか」


広大な土地なので林家のみで治めている訳ではない。

通忠が「すべて林家のモノだ」と言わなくて少し安心した。

信長は領主や村々を回ってゆく。


「岩倉城の信安はどうだ?」

「調略はほぼ終わっております」

「そうか」

「しかし、信安様らは抵抗を続けております」

「まだ判らんのか?」

「相変わらずでございます」

「意地を張りおって」


尾張国上四郡の守護代であった信安は又代に降格するのを嫌がって、岩倉城に籠ったままである。

幼い左兵衛(信賢のぶかた)や久兵衛(信家のぶいえ)を持ち上げて『押し込め』で当主交代を企んだ家臣は成敗され、身の危険を感じた家老であった山内-盛豊やまうち-もりとよも逃げ出す有様だ。

また、犬山城の織田-信清おだ-のぶきよも信長の姉である犬山殿を通じて詫び状を送って来ている。


「領地の安堵は問題ないが、清洲の家老入りは認められない」

「まったくでございます」

「姉上がおられるので攻められないと高を括っているのであろうが甘すぎる」

「生駒殿も降ったようですな」

「あいさつに来た」


信清のぶきよの有力家臣であった生駒-家宗いこま-いえむねも主を見限って信長に降った。

昔、世話になった家なので潰さずに済んだのが幸いである。

息子の家長いえながは信長のお気に入りであった妹を嫁がせようと画策してくれたので悪い印象を持っていなかった。


昼になる頃には予定を終えて、信長は通忠みちだたと別れて帰路に入った。

予定通りに大野木城に寄ってゆくつもりだ。

しかし、その手前の比良城に近づくと、律儀に佐々-成宗さっさ-なりむねが出迎えてくれた。

息子の成政なりまさは中々の豪の者であり、常備兵の中から森-可行もり-よしゆきらを重臣に引き上げたので穴を埋めるように上がってきた。

森-可成もり-よしなりと合わせて、清洲常備兵の双璧と呼ばれはじめている。

成宗にお昼をどうかと誘われたが信長は丁寧に断った。


随分と時間が掛かったが、予定通りに塙-直政ばん-なおまさの大野木城に到着できた。


 ◇◇◇


大野木城で信長を出迎えた直政は奥に連れていった。

余人を交えず、いくら直政が忠義に厚く信用できると言っても側近を外して会談はできない。

信長は口の堅い二人だけを残して奥に入った。

予想通り、直政の妹の直子なおこが待っていた。


「久しいな」

「本当にお久しぶりでございます」


直子は信長の顔を見るだけでぱっと明るい笑顔をまき散らす。


「直子、これでよいか。清州に殴り込むなどもう申すではないぞ」

「兄上、ありがとうございます」

「そうか」

「もう結構ですので、どうか席をお外し下さい」

「できる訳がなかろう。もう若様ではない。御当主だ」

「そうですか。仕方ありません」


けっぴろげな直子の性格に信長が冷や汗を流しはじめる。

嫌な予感しかしない。

だが、来ないと言う選択もない。

来なければ、直子は本当に清州に乗り込んでくる。

まだ、『うつけ』と呼ばれる元服する前の信長を一番良く知っているのが直子であった。


「若様、どうしてお越しになって頂けないのでございますか?」

「承知しておるであろう」

「えぇ、承知していますとも。お話くらいはよろしいでしょう」


そう言って、ずるずると近づくと肩を合わせたと思うと、頭を信長の胸に埋めた。


「これ、何をやっておる」

「何を慌てておられるのです。この程度はお遊びです」

「無礼であろう」

「無礼でしょうか? 若様のはじめてを頂いた私が最愛の方の胸に顔を埋めるくらいは許されるのではありませんか?」

「おまえ、何を言っておる」

「兄上もご存知の癖に」

「ここで言う話ではない」


直政の目がちらちらと後の側近に向く。

側近の二人が困ったように目を反らしていた。

信長は耳まで真っ赤だ。

どう言い繕えば良いのか困っていた。

直子は物分りの良い女だったハズだ。

こんな暴挙をすると思ってもいなかったのだ。

直子は体をより信長の胸に寄せると、胸元に指先で『の』の字を書きながら甘えてくる。

信長は困った。


「大好きな、大好きな、吉乃きつの様が嫁いでしまって、居なくなって寂しがられた若様を御慰めしたのは私です。それもお忘れになったのですか?」

「忘れておらん。感謝しておる」


そのような話をされるともっと困る。

後ろの側近らもそわそわして来た。

信長が手を振って退出を求めた。

直政と一緒に隣の部屋に移ってくれた。

出ていったのを見てから、信長は疲れたように溜息を付く。


「何の悪戯だ?」

「悪戯ではございません。拗ねているのでございます」

「同意してくれたではないか?」

「帰蝶様にご嫡男ができるまで控えさせて頂きますと言っただけです。お言葉を違えないで下さい」

「あぁ、そうであった」

「7年も放置されて、わたくしにどうせよとおっしゃるのですか?」

「すでに、嫁いでおると思っておった」

「誰のせいですか? 誰のせいですか? すべて断りました。無理に嫁がせようとしたので、那古野に行って『若様の妾だ』と騒ぐと言ったので父上も兄上も諦めてくれたのです」

「行き遅れたな」

「だから、誰のせいですか」

「儂か?」

「当然です」


直子が信長の顔をまっすぐに睨んだ。

あの幼くやんちゃな直子が美女に化けていた。

遠目では何度か見ていたのだが…………。

怒っていた直子が今度は急に目をトロンとさせて信長を一心に見ている。


「先だって、帰蝶様に戦の事を感謝されてお茶に誘われました。若様の惚気のろけ話を聞かされて、わたしくがどんな気持ちだったか察せられますか?」

「悪いことをした」

「本気で思っておりますか?」

「思っておる」


信長の着物をぎゅっと握る。

爪が少し立っており、信長の胸を引っ掻いていた。

信長はその痛みに耐えた。


「帰蝶様だけならば、わたしくも我慢して通すつもりでした」

「直子」

「帰蝶様以外にご寵愛を分けるならば、わたくしにもお情けを下さい。決して、若様の妾などと申し出ません。ほんのわずかで結構です。わたくしにもお情けを下さい」

「だがしかし」

「もし御子が生まれても、若様の子と申しません。不義の子としてわたしくが育てます。決して迷惑は掛けません。どうかお情けを」


このように懇願する女子おなごだったか?

男の子おのこのように気丈で、とても年下に見えないやんちゃ娘であった。

うつけの若様に寄ってくる変な娘だった。

直子は人の目など気にもしない。

そして、吉乃が嫁に行き、落ち込んでいた信長を慰めてくれた。

帰蝶が嫁いで来てからは遠目に見るだけになっていた。

あの気丈な娘を、こんなに不安そうな顔で懇願する。

このようなか弱い女子おなごにしたのは儂か?

信長が自問自答を繰り返す。

直子の事を嫌いではない。嫌いではないのだ。

だがしかし。

帰蝶の顔が浮かんでくる。

裏切りたくない。

迷う信長に直子は強引に接吻をした。


「お願いです。お情けを」


涙目に訴える。

こんな儚い女に誰がした。

儂か?

儂がここまで追い詰めてしまったのか?

儚げな直子が愛しくなった。

直子の目が信長を求めていた。

信長はついに直子を抱きしめてしまった。


「若様、若様」


隣の部屋で待っている側近らはいい迷惑だ。

ここで起こったことを他所で話す訳にはいかない。

だが、随分と待たせている他の者に何と言おう。

それよりも奥方の帰蝶様に問い詰められた時に何と答えればよいのだろうか?

信長から再び声が掛かった時には二人とも衣服を整え直していた。


「他言無用だ」

「承知しております」

「何も見ておりません。聞いておりません」

「うむ、それでよい」


直子が手を付いて優しい笑顔で送り出してくれる。

兄の直政は一言も発せることもなく、頭を下げたままである。


「またのお越しをお待ちしております」

「度々は来られぬ」

「それは重々に承知しております」

「すまんな」

「謝罪は無用。わたくしの我儘でございます」

「そうか」


心に棘を持ったままで信長は清洲に戻っていった。

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