第16話 藤吉郎の下剋上。(4)

天文22年 (1553年)6月18日。

藤吉郎は信広から借りた織田家の家紋入りの衣装を身に纏って馬上の人となった。

安祥城あんしょうじょうへ続く道をぱっかぱっかとゆっくりと馬が歩んでゆく。

昨日の内に手紙を送った。

だが、城番を任されている岡田-元近おかだ-もとちかが気に入らないと矢を射かければ、それでもう仕舞いだ。

藤吉郎も緊張していた。


安祥城は小さな丘を利用した総板張りの城であり、本丸、2ノ丸、3の丸と三層の構造で作られている。

平城ではあるが、空堀で囲われている。

大きさは沓掛城と同じく、数千人の兵を収容できる大きな城であった。

しかし、那古野城や中根城のような石垣はないので防御力は左程でもない。

平城の欠点である大軍に押し寄せられると一溜まりもない。


「いやぁ、知朱殿の着物姿は美しいですが、小姓姿と言うのも何とも言えない凛々しさを感じますな」

「どうせ、ボクは似合いませんよ」

「そんなことございません。美しく凛々しいお姿です」

「お世辞はいいです」

「お世辞ではございません。本当に美しい」


馬を引くのは小姓姿になった知朱ちあけである。

藤吉郎の褒め言葉に頬を赤める知朱が愛らしく、その場で抱き付きたくなる衝動を抑えた。


「いい加減に黙れ」


そう怖い声を上げるのは槍持ちの護衛の侍に扮した蒼耳そうじであった。

下人の姿では胸元から見える厚い胸板が如何にも強そうと言う感じであったが、侍の格好をすると強くない訳がないと言うほど様になっていた。

その後ろに荷物持ちとして従者が10人ほど付き従っている。

彼らは信広と一緒に調練を行い、土手を造る為に土木作業を勤しんでいる兵達であり、その中から元三河出身の者達が選ばれた。

ひょろひょろとしているのは藤吉郎と知朱のみであり、他の者は強そうであった。


4日前(15日)夕刻、話が決まった瞬間から右筆の山中-為俊やまなか-ためとしと助手の大饗-正辰おおあえ-まさたつは急いで準備を始めた。

まず、松平-家次まつだいら-いえつぐに出陣の要請を出し、安祥城周辺の豪族や領主に農民を借りる手紙を出した。

同時に信広挙兵の前触れを末森麾下の味方に走らせた。


末森の城主達は魯坊丸と信勝の諍いで慌てている所に信広の使いが、「18日に安祥城を攻めるので兵の準備をお願いします」と言って来たのだ。

城主達はさらに慌てる。

問い合わせるも末森の魯坊丸と信勝から返事が返って来ない。

信光もいるハズなのにどうなっているのか?


「信長様だ。信長様にお聞き立てするのだ」


判断に困った城主が清州に使者を立てる者まで出ていた。

一夜にして尾張中に噂が広まった。


「信勝様が魯坊丸を手打ちにされた」

「違う、違う、今川の刺客から身を挺して信勝様をお守りになったらしい」

「魯坊丸様はご無事なのか?」

「無事だそうだ」

「おらは危篤と聞いたぞ」

「信広様は弔い合戦をされるらしい」


根も葉もない噂が色々と錯綜さくそうする。

翌16日には那古野や熱田が、17日には尾張中が上を下への大騒ぎになっていた。

肝心の末森は沈黙し、沓掛は戦仕度で大忙しにしている。

信広から食糧(酒のさかな)と酒の手配だけは確かに来ていた。

これではすべて嘘と笑い飛ばせない。


当然、尾張に張ってあった間者が雇い主の元へ四方に飛んだ。

隣国である三河にもすぐ伝わっていた。

そこに「明日、使者を送る」という一方的な手紙が安祥城の岡田元近に届けられた。

信広の使者が元近の元に来た。

こうなると安祥城周辺の豪族や領主達に兵(農民)を借りたいと言う信広からの手紙に信憑性が帯びてきた。

兵を出さないのは今川方と思われる?

とり急いで農兵をかき集める。


「急げ、時間がない。旗を詰め込め」


沓掛も大忙しだ。

わずかな護衛で何台もの荷押し車が尾張と三河の国境を越えて出て行った。

皆は武器と兵糧が積まれていると思っただろう。

護衛の少なさに襲いたくば、襲ってみろ。

そんな傲慢さが見え隠れしていた。

だが、その荷が織田家の旗と宴会用の食糧(酒のさかな)と酒のみとは誰も気づかない。

さて、隣国の水野信元は首を捻った。

水野家に出陣要請が来ていないのだ。


「信広は何を考えているのか?」

「元々は信広様のお城、自らの手で取り戻されるつもりではないかと」

「だからと言って、我らが何もしなかったと言わせる訳にはいかん」


水野家に陣触れが走った。

その噂も行商人の口から安祥城周辺の村々にすぐに伝わった。


元近の下に錯綜する噂が飛び込んで来ていた。

何が真実なのか?

元近は確かめたくとも確かめる時間がない。

すでに織田家の使者が目の前に来ていた。

(岡田)元近は会うか、会わないか、その選択を迫られた。

物見の家臣が戻ってきた。


「で、どうであった」

逢妻男川あいづまおがわの川向こうでは無数の織田の旗が並び立ち、周辺の村々から兵が集まって来ております」

「数は?」

「少なくとも3,000人以上はおります」


元近は腕を組んで唸った。

水野もこちらに向かって来ていると言う。

援軍は期待できない。

本気になった織田家に勝てる訳もない。


「使者をお通ししろ」


藤吉郎は目通りを許された。

第一関門を突破した。


「お初にお目に掛かります。織田魯坊丸の家臣、織田信広の直臣にて木ノ下藤吉郎と申します」

「どのような御用件か?」

「できれば、臣従して頂きたい」

「たとえ、ここで討死してもそれはできん」

「流石、天下に名立たる忠義者の岡田元近様でございます」

「煽てても変わらん」


ぎろりと元近が藤吉郎を睨み付ける。

その怖い目にぶるぶると恐怖に身が竦む思いだが、一世一代の大博打だ。

ここで引く訳にいかない。

元近の目には藤吉郎がひ弱そうに見えた。

木ノ下藤吉郎など言う名前は知らない。

おそらく交渉を長引かせても、使者を無視して攻めてくるように思えた。

この使者に人質の価値もないと悟った。


「しかし、忠義者の元近様とは思われないご返事でございます。主が殺され、領民が蹂躙されるのをお望みとは残念な限りでございます」

「それをするのは織田家であろう」

「実は、元領民がなぶり殺しになるのを嘆いておられる方がございます」

「誰のことだ」

「こちらの総大将は松平-忠吉まつだいら-ただよし、そう甚二郎じんじろう 様でございます」

「なんと?」

「甚二郎様は元近様のご主人である松井-忠次まつい-ただつぐ様に命を助けて貰った恩もあり、何とか、命を助けたい。また、元領民が蹂躙されるのを防ぎたいとお考えでございます」

「甚二郎様がそうおっしゃったのか?」

「はい」


藤吉郎は頷くと腰を浮かせて、ずるずるっと元近の側に寄って行く。

元近の側近が刀に手を掛けて警戒するが、藤吉郎は何事もないように進んだ。

懐に小刀を仕込んでいる可能性もあり、家臣が警戒するもの無理はない。

元近は藤吉郎には何もできないと悟って、家臣の警戒を解いた。

藤吉郎は耳元まで近づいたのです。


「甚二郎様は弟の忠茂ただしげ様の命を助けたいと思っておられます。追放されたとは言え、東条松平家の事をご心配されております」

「然もあらん」

「こちらに甚二郎様がいらっしゃいます。イザという時に降り易いではありませんか?」

「簡単に裏切ることはできん」

「ふっ、今川家は当てになりませんぞ。曳馬城主飯尾-乗連いのお-のりつら様に謀反の意あり、今川家は遠江だけで手一杯になるでしょう」

「お主、何者だ?」


元近が藤吉郎の目を見る。


「それはおいおい」


藤吉郎の目がにんまりし、口が割けるほどにたぁとした不気味な笑みを広げた。

藤吉郎の作り笑いだ。

細身のブサイクな顔が、さらにブサイクになる。

そして、一癖も二癖もありそうな胡散臭い顔だった。

藤吉郎がそこで懐に手を入れたので側近に緊張が走った。

えへへへ、不気味な声で小さく笑う。


「これを」


取り出した手紙を渡すと、藤吉郎は後ろに下がった。


「甚二郎様が信広様より頂いた書状でございます」


(松井)忠次の波城周辺の領地安堵状であった。

その中に(岡田)元近の領地も含まれる。


「如何でしょう。臣従できないならば、勝ち目のない戦で兵を減らすのも何でしょう。安祥城に火を付けて出ていって頂けませんでしょうか?」

「戦わずに逃げろと言うのか?」

「その書状がお礼でございます。無駄死にするよりも、(松井)忠次様の為に兵を温存するのです」

「物は言いようだな」

「元近様が死なれて、誰が喜ばれますか?」

「それも甚二郎様の指示か?」

「はい」


元近が腕を組んで目を閉じて上を向いた。

刻一刻こくいっこくと時間が過ぎていった。

藤吉郎は頭をやや下げたままで強く握った手に汗が湧いていた。

まだか、まだか、まだか。


謁見の間に兵が報告に入って来た。

側近に耳打ちすると、元近の下に走った。

どうやら農民達が川を渡ったようだ。

また、逆方向から水野の旗が見えたらしい。

ばたりと元近が立ち上がった。


「会談は中止だ。兵を引き上げる」

「残念でございます」

「此度は縁がなかった」

「火を掛けるのは納屋か馬小屋にして頂けると助かります」

「承知した」


元近が側近に命じて、納屋と馬小屋に火を掛けるように命じた。

安祥城からいくつも火の手が上がって城が燃えているように見えただろう。

裏門から元近が兵を率いて去っていった。

さぁ、ここからが大忙しだ。


「敵の旗を下げ、織田の旗に変えろ!」


松平の旗を取り、従者達が持ってきた箱を開けて織田家の旗に張り変えてゆく。

急がないと味方が攻めてくる。

味方に攻められては堪らない。


「使者を立てろ! 安祥城は織田信広が家臣、木之下藤吉郎が奪った」


藤吉郎も靡く織田家の旗の間で瓢箪ひょうたんを反対にすると槍に刺して見張り台の上で高々と揚げた。

勝鬨かちどきを上げて戦が終わったことを告げた。

そして、総大将の甚二郎を迎える。

付き従う家臣はたったの20人だ。

桜井松平家の家次は100人ほどの兵を連れて駆けつけてくれた。

(水野)信元は700人の兵を連れてきた。

迎える藤吉郎が貫録だけでびびってしまった。


その他の豪族や領主が引き連れてきた農民兵は合わせると2,000人足らずもある。

対する織田家の者は合わせても20人もいない。

荷物を運ぶのは三河から雇った人夫だ。

次々と宴会用の肴と酒が運び込まれ、甚二郎のあいさつで宴会が始まった。

そして、尾張中に激震が走っていた。


『織田信広が家臣木之下藤吉郎。わずか10人で安祥城を奪取』


尾張でどたばたと大騒ぎをしている間に城が1つ落ち、同時に魯坊丸が末森城を出て中根南城に戻ったことも風の早さで広まった。

魯坊丸が安祥城を口先1つで調略したと噂が走った。


日が暮れる頃には安祥城に入った者達は酔っぱらって出来上がっていた。

持ち込まれた尾張の酒を浴びるように呑んでいる。

藤吉郎も進められるままに呑んでかなり酔っていた。


「しょうべん、しょうべん」


藤吉郎は緊急事態に部屋を出て厠に向かった。

その途中に藤の花が咲いていた。

どうやら元近の趣味で剪定せんていして、花の咲く時期をずらしていたのだ。

その花の下に小姓姿の知朱を見つけた。

篝火かがりびの灯がゆらゆらと揺れて、その姿は藤の花の精のようである。

藤吉郎はごくりと生唾を飲む。


「知朱殿」

「藤吉郎、見事でした」

「これも知朱殿のお蔭ですだ」

「ボクは何もしていない」

「知朱殿が後ろにいると思っただけで勇気100倍。何としても成功せねばと奮い立たせることができましただ。知朱殿が居なければ、びびって逃げ出してただ」

「そう言ってくれると嬉しい」


知朱がにっこりと笑う。

藤吉郎はもう我慢ができない。


「知朱殿、おらは士分に取り立てて貰えるように頼むつもりだ」

「うん、たぶん大丈夫」

「おらは知朱殿の為にこれからもがんばりますだ」

「ボクの為?」

「知朱殿、おらの嫁御よめごになってくだせい」


藤吉郎はがんばった。

勇気を振り絞った。

こんな可愛い嫁御が貰えるならば、どんなことも耐えてゆける。

どんな逆境も越えてゆける。

敵も味方も投げ出してすべてを奉げていい。

藤吉郎は廊下の上から、その場に土下座をして懇願した。

庭で藤の花を見ていた知朱が目を白黒させている。


「えっ、え、え、え~~~~!」


知朱が取り乱す。

藤吉郎は土下座をしたままで返事を待った。


「お願いしますだ!」


藤吉郎がじっと見知朱の目を真っ直ぐに見た。

ぱちぱちと篝火の灯から弾ける音がした。


「ごめんなさい」

「どうしてだ。おらのことが嫌いか? ブサイクは嫌か?」

「ボク、藤吉郎の事を尊敬しているし、凄いと思う。たぶん、好きだと思う」

「ならば、どうしてだ?」


藤吉郎が粘って訴える。

ここで引けない。引く訳にはいかない。


「ボク、師匠から女着を身に付けるように言われているけど、『おとこ』なんだ」


ピシィ、藤吉郎のガラスの心にヒビが走った。

衆道しゅどう(男色の道)を究めた信長なら越えられない壁ではなかったのだろうが、庶民出身の藤吉郎には高い壁であった。


「嘘だ! 嘘だと言ってくれ!」


わずか10日余り、下人から侍への下剋上げこくじょうを果たした藤吉郎も『おとこ』の壁は越えられなかった。

藤吉郎の心は決壊した。

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