第13話 藤吉郎の下剋上。(1)

(天文22年 (1553年)6月15日)

沓掛にある小さな山寺から元気な声が溢れていた。


『し、のたまわく…………』


和尚の声に続き、黄色い声で孔子の教えが反復される。

意味なんて解らない。

でも、大きな声を出すと褒められる。

子供達が元気な声を上げた。

何度も暗唱させる。

そして、砂盆に平かなを書き写しさせた。

それを何度も繰り返す。


それに混じって藤吉郎とうきちろうも声を上げた。

子供に混じっているのは藤吉郎だけではない。

読み書きそろばんのできない村人も混じっている。

皆が板に貼られた紙に書かれた文字を書き写していく。

中には砂盆ではなく紙に書く裕福な者もいる。

藤吉郎は当然砂盆だ。

寺子屋で優秀な者は神学校に推薦されると聞いたので頑張っている子もいる。

まんようがなとかくずしじとかいう難しい字も習うそうだが、平仮名五十音図と明朝体漢字を覚えれば公式文書なるものは読み書き出来るので十分だそうだ。

頑張れば、食事に一品追加されると聞いて子供達は目の色を変えていた。

大人達はまだ戸惑っている者も多い。


村人は家ごとに8人組を組まされ、八家で1つの土地を耕すように命じられた。

一家が山に入って狩りや山菜摘みなどに励み、三家は畑の面倒をみて、もう三家が使役に出る。

残る一家は山寺に行って勉強とその手伝いをする。

これが1日ごとにズレて回ってゆく。

足りない食糧は領主から支給されるので問題もない。

農作物の被害を出す害獣の駆除を黒鍬衆が時々やっており、山狩りで取れた猪や鹿を各村に差し入れしていた。

領主の人気はおおむね好評のようだ。


「住職様、そろそろ時間でございます」

「そうですか。では、準備をお願いします」

知朱ちあけ殿、行きましょうか」

「はい」


知朱は藤吉郎の同僚であり、一緒に馬の世話をやっている。

藤吉郎の頭になる蒼耳そうじの妹だ。

毎日、山寺に通うようになった藤吉郎は村から手伝いに来ている者の仕事を割り振る。


「竹殿は薪割をお願いします」

「志野殿は知朱殿と一緒に料理を手伝って下さい」

「源蔵殿はおらと一緒に寺の畑から野菜を取りに行きます」


いつの間にか、藤吉郎が指揮を取っていた。

腰が低いので反発も起きない。

寺に知朱の兄の蒼耳が入って来た。


「どうだ?」

「あははは、まだ6日ですが、もう主になっています」

「村の者が怒らんのか?」

「藤吉郎が一番働きますから文句も出ておりません」

「領主の家臣と言うことで遠慮しているのではないか?」

「それはあると思います」


ふんっと蒼耳が鼻を鳴らした。

蒼耳、19歳。

熱田領内の治安を担当していたが、先程の今川家の戦で松巨島に渡ったお市様の護衛に入り、死線を幾度となく越えた。

ヤバい相手と何度となく、対峙したことはあったが、死をはっきりと覚悟したのはあのときばかりである。

それに比べれば、間者一人の監視など容易いものだった。


知朱、13歳。

藤吉郎を監視するのが忍びとしての初仕事であった。

馬引き頭である兄の蒼耳の指示通りに動いていた。

蒼耳は妹を心配する過保護な兄という役柄だ。


「知朱殿、芋はこれくらいでよろしいか?」

「結構です」


野菜をとって来た藤吉郎が、その足で芋粥に使う芋をとって来た。

横にいた蒼耳を見つけて藤吉郎が頭を下げた。


「色目を使っていないだろうな?」

「もちろんでございます」

「いい気になるよ。殿の命令でなければ、お前が慣れるまで、知朱を貸すなどあり得んからな」

「十分に承知しております」

「蒼耳、仕事の邪魔」

「まったく」

「ボクは藤吉郎のことが嫌いじゃないよ」

「そう言って頂けるだけで心が癒されます」

「付け上がるな!」

「蒼耳、仕事の邪魔」


ちぃ、蒼耳が舌を打って寺から出ていった。


「ありがとうございます」

「蒼耳はボクのことを心配しているだけだから許してね」

「もちろんでございます」

「芋を綺麗に洗って下さい」

「承知致しました」


子供達は毎日のように寺に通う。

腹一杯食べられる訳ではないが、お昼が出るので楽しみにしてやってくる。

昼は芋粥や小豆粥、キノコごはん、餅が出る日もある。

大人は勉強する時間を少し削って料理の準備をしなければならない。

昼が終わると、家に帰る子供もいれば、そのまま寺で畑仕事や手に職を付ける訓練をする子供もいる。

村人は夕方まで手伝いを続けるが、昼を終えると藤吉郎と知朱は城に戻って馬の世話する。

城に帰る途中で大きな石に座った侍を見つけた。


「どうかしましたか?」

「ははは、情けないことに足の皮がめくれて動けなくなってしまった」

「知朱殿、何とかなりませんか?」

「そうですね」


知朱が侍の足を覗き込み、「失礼します」と言って足の裏を窺った。

見事に皮が捲れ、そこの砂利や砂が入って痛々しい。


「水筒はお持ちですか?」

「持っておるが、中身がない」

「藤吉郎、これに水を入れ、この手拭きを濡らして来て下さい」

「承知しました」


取ってきた水筒の水をぽとぽとと垂らして足を丁寧に洗って砂利と砂を取ってゆく。

藤吉郎は三度水筒に水を注ぐ為に走らされた。

最後に手拭きで足を覆うとさらしを取り出してぐるぐると巻いた。


「これでしばらくは持つと思います」

「すまない。世話になった」

「お侍様はどこに向かわれるのですか?」

「そこの沓掛城だ」

「それなら丁度よかっただ」

「藤吉郎、城代様からしゃべり方に気を付けるように言われている」

「そうでした。丁度良かった。おら達も沓掛城に帰る所です。肩を貸します」

「助かる」


城まで藤吉郎が肩を貸しながら戻った。

城に戻ると玄関に案内する。

侍は「甚二郎じんじろう が来たと、信広様に伝えて欲しい」と言った。

藤吉郎は走って信広の元へ急いだ。


 ◇◇◇


甚二郎は客間の間に通され、信広と昔話に花を咲かせた。

甚二郎は松平-忠吉まつだいら-ただよしと言い、松平氏宗家5代松平-長親まつだいら-ながちかの孫であり、碧海郡の青野城の元城主であった。

父の松平-義春まつだいら-よしはるは今川家の家臣となっていたが、義春の死後、家督を継いだ甚二郎は織田方に寝返った。

そして、安祥城あんしょうじょうの城主であった信広と一緒に戦った仲であった。


「俺が不甲斐ないばかりに迷惑を掛けた」

「勝敗は時の運。致し方ございません」

「竹千代と人質交換という恥を被せられ、その後の援軍にも行けず、申し訳ない」

時勢じせいを読めなかった私が悪いのです」


安祥城を今川の雪斎が落とし、人質となった信広は織田家の人質であった竹千代と交換された。

竹千代を取り戻した今川家は、その竹千代を今川の人質として岡崎勢を掌握した。

そして、三河制圧の過程で青野城も陥落し、甚二郎は弟に家督を奪われて追放されたのだ。

酒を酌み交わしたいが昼間の酒を禁止されており、今は茶で持て成していた。


「失礼致します」


藤吉郎と知朱が戻ってきた。

二人は山まで薬草を取りに行き、薬草を潰してから戻ってきた。

今度は消毒用の蒸留酒を持って戻ってきた。

まず、足を蒸留酒で洗い、薬草を付けると清潔な手拭きで覆い、晒で縛っておく。


「これで2、3日もすれば、治ると思われます」

「見事な手並みだ。いずれのご息女か?」

「ボクはただの下人でございます」

「嘘を申されるな。言葉使い、その振る舞い、下人には見えん」

「師匠がよろしかったのでございます」

「薬学を心得ている者が下人であるハズがない」


ふふふ、信広が低い声で笑った。

甚二郎が振り返った。


「驚くかもしれんが、熱田から連れてきた者は多少の薬学を心得ておる。そのような者がこの沓掛城に50人はおる」

「まさか?」

「そのまさかだ。この者は我が直臣であるが下人に間違いない」


藤吉郎が羨望の眼差しで知朱を見ていた。


「兄もできます」

「そちらはもっと信じられません」

「ボクより巧いですよ」

「あり得ません」


信じられない者を見たと言う顔をしていた甚二郎が信広の方を向いて座り直した。

やはり織田家は格が違う。

何度か自問自答するように頷くと頭を深々と下げた。


「安祥城を取り戻したい。どうか、兵をお貸し下され!」


やはりそうであったか。

信広は首を微かに横に振る。

その言葉を聞く前に再会を祝いてやりたかった。

せめて夕餉の後にして欲しかった。


「織田家から兵を送ることはできん。兵を貸すこともできん」

「ここには3,000人の兵が在中していると聞いている。500、いやぁ、300で結構。某に貸して下され!」

「もう一度言うぞ。出来ん」


甚二郎が悔しそうな顔で唇を噛みしめる。

信広も悲しそうな顔で甚二郎を見下ろした。

甚二郎は貸して貰うまで頭を上げられない。

長い長い沈黙が続く。


「信広様、よろしいでございましょうか?」

「なんだ」

「兵の代わりに書状を書いては如何でしょうか?」

「何の書状だ」

「安祥城を護る者は岡田-元近おかだ-もとちかと申しまして、松井-忠次まつい-ただつぐの家臣でございます」

「ヤケに詳しいな」

「おらが詳しいのはすでにご存知と思います」

「そうであったな」


藤吉郎は今川方の間者であることは魯坊丸に看破されていた。

知朱という場違いな者も側に置かれれば、勘のいい藤吉郎はすぐに気が付いた。

無邪気な『ボクっ子』を宛がったのは寝返れという意味だ。

(違います。偶然です)

信広の信用を得る為に藤吉郎も無理せねばならないと察していた。


「(岡田)元近は松平-忠茂まつだいら-ただしげの家臣ではなかったのか?」


甚二郎が首を捻って藤吉郎に聞く。


「松井忠次は松平忠茂の家臣でございます。家臣の家臣に守らせております。(松井)忠次にとって、三州下和田(安城市内)の所領を護ることは意味がございません」

「うむ、その通りだ。あくまで忠義を尽くしておる」


三州下和田の所領は(松平)忠茂の物であって、(松井)忠次の物ではない。

大事なのは(松井)忠次の所領だ。


「(松井)忠次は、幡豆郡吉良(西尾市吉良町)にある波城の領地を守りたいと思っております。どうでございましょう。来年の織田方の侵攻に際して、領土安堵の書状をお出しになれば、(岡田)元近の心が揺れると思います」

「来年、侵攻させるのか?」

「さぁ、どうでしょう」

「今、言ったではないか?」

「お聞き間違いでございます」


織田家が三河に侵攻するなど決まっていない。

だが、ないとも言えない。

はっきり言って織田家に負けた今川家は当てにできない。

織田方に寝返るつもりだったが、その織田家がすぐに攻めて来ないので困惑している家が多くあったのだ。

三河が混沌となったのが織田の責任だ。


「信広様、兵は諦めます。どうかこの者達をお貸し下さい」


おいおい、信広は髭が少し伸びた顎を撫ではじめた。

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