閑話.早川日記(2) お市様に挑戦される。

熱田の町の美しさは他と比べるまでもない。

人々は活気に満ち溢れており、手押し車はひっきりなしに通り過ぎる。

両側に店がずらりと並ぶ。

町の人に笑顔が絶えることがない。

地面は固く、土埃も上がらない。

大通りには煉瓦が敷かれて美しかった。

湊には多くの船が並び、漁師達が舟から魚を降ろしている。

降ろした魚はその場で競りが行われて卸されてゆく。

漁師も商人も大忙しだ。

熱田神社に戻って来ると、境内の広場には朝市が立ち、皆が思い思いの場所で品物を広げていた。

境内の道はじゃりが敷かれており、歩くごとにがちゃがちゃと騒がしい。

どこを歩いても砂っぽくなく、風が吹いても土煙が上がらなかった。

小田原の町も鎌倉に負けない随分と大きな町になったと思っていたが、熱田に比べると田舎と思い知らされた。

小田原が目指す町像が其処にあった。


魯坊丸は朝から沢山の方と会談の約束があり、館の謁見の間を占有していた。

幸菊は宗哲の案内で熱田をぐるりと回った。

お昼を食べると清州の尾張守護である斯波-義統しば-よしむねに会いに行く。

町を出て街道を行く。

道も整備されていた。

見晴らしのよい変わった馬車に乗って幸菊は移動する。

乗り心地のよさがびっくりだ。


「どうした。魯坊丸が気になるか?」

「はい、大叔父上。移動中も馬の上から忙しそうに指示をされているのですね?」

「今、尾張がごった返しておるのだ」

「とても整然としているように見えます」

「見掛けはそうだが国替えが行われ、担当部署の者が総入れ替えされて、思うように動いておらんようだ」

「そうなのですか? まったく気が付きませんでした」

「織田家は守護代の信長、末森の信勝、那古野の信光、勝幡の信実、守山の信次と一見分裂しているように見えるが、皆、魯坊丸が好き勝手するのを許しておる。氏康が儂を好き勝手させてくれるのと似ておる」

「では、北条の五色と同じなのですか?」

「同じではないが、よく似ておる。分裂し、バラバラのようだが根は1つだ」


余所者の宗哲が好き勝手に動いても咎めない度量の広さが織田の強さだと言う。

土岐川(庄内川)を渡ると景色が一変した。

道は整備されていたが、辺りの鄙びた感じが小田原近郊と似ていた。

清洲も熱田以上の活気に満ちていたが、ごじゃごじゃして見苦しい。

しかも見渡す限り屋敷を建てている最中であった。

風が吹く毎に土煙が舞った。


「川の向こうに新しい城を造っているそうだ」

「城を造っているのですか?」

「恐ろしい早さで造り変えられておる。(北条)綱成つなしげを張り付かせて学ばせておる」

「織田は怒りませんか?」

「見学させて欲しいと頼むと気前良く承知してくれた。将軍家、六角家、斎藤家の家臣と仲良く一緒に回っておる」

「公方様の?」

「奉公衆の方だ」

「まぁ、それは大変なお役目ですね」

「そうかもしれんが、氏尭うじたかは(近衛) 稙家たねいえ様と(久我)晴通はるみち様の物見に付き合わせておるからどっちが大変か判らん」

「まぁ、それは気の毒です」


幸菊は昨日の食事を思い出し、「ご愁傷様です」と心の中で労った。

宗哲が言うには、ここで朝廷と将軍家の両方に繋ぎができたことは大きな収穫らしい。

当然のことだが、 稙家たねいえ様の方にも六角家や斎藤家の家臣が人を出している。

他国の使者らには、織田・六角・北条・斎藤の四カ国同盟に見えるらしい。


また、越前の朝倉、越後の長尾、出雲の尼子、安芸の毛利、豊後の大友などからも使者が来て情報の交換ができた。

長尾家は織田家と北条家が繋がったことを酷く警戒していた。

それでも腹を割って話ができたことが大きい。


6月が近づき、再び甲斐の武田家が動き始めた。

だが、北条家は武田家を援護しない。

また、揚北衆や蘆名家のことは預り知らないと言った上で、宗哲は長尾家の上洛に際して背後を襲わないことを約束した。

これで長尾-景虎ながお-かげとらは武田家に集中できる。


「下総の結城氏、常陸の佐竹氏、上野の山内上杉氏も来たぞ。安房の里見氏の使者など、北条が横に座っておったので青くなったわ」

「それはさぞ、肝が冷えたでしょう」

「ははは、してやったり!」


今川家の敗戦を聞いて、織田家を味方にしたいと思った里見家は、すでに北条家と通商同盟を結んでいたと聞かされて驚いた。

軍事同盟でないのが唯一の救いだが、北条家の船を襲えば、通商を阻害したとされて織田家が兵を送るかもしれないと脅されれば、青くなるのも仕方ない。


「織田が通商条約を呼びかけなければ、もっと良かったのだがな!」

「織田様は今川家とも結ばれたのですよね?」

「今すぐに今川家を滅ぼすつもりはないのが判ったのは朗報だ。北条は関東のみに注意を払えば良いことになる」


宗哲らは幸菊を中根南城に送り届けると相模に帰ることが決まっていた。


「公方様から関東管領代の内示ないじを頂けたのが大きい。ふふふ、関東管領の上杉-憲政うえすぎ-のりまさ様が認めればと言う条件付きだがな!」

「嫡男の龍若丸を殺した北条家を憲政様がお許しになるでしょうか?」

「言っておくが北条が殺した訳ではないぞ。捕えた時には、すでに助からぬほどの大怪我をされており、北条は楽にしてやっただけだ」

「誰がそんな話を信じるのですか?」

「嘘ではない」


憲政は北条家に攻められて、嫡男の龍若丸を見捨てて越後に逃亡した。

その龍若丸も家臣であった平井氏の裏切りにあって捕えられて、北条家に引き渡された。

そこで龍若丸が亡くなっているのだから、北条家が殺したと思われて不思議はない。

越後に逃亡した憲政であったが、すぐに上野の中部から北部に戻って来ている。

そこで越後の長尾家の援軍を待っていた。

だが、景虎が援軍を送ることはない。


憲政が氏康を関東管領代に認めれば、関東の争乱が終わることを知らされているからだ。

公方様は実力のない憲政は実権を北条に譲り、北条の保護下に入るように命じてくれた。

憲政が下る大義名分を作ってくれた。

公方様を通じて北条家と長尾家の両方から通達される。

また、上野東部の古河公方は当時11歳の足利-義氏あしかが-よしうじを擁立し、北条家の保護下に入れていた。


まぁ、すべて収まれば、関東大連合による上洛が待っている。

だらだらと1ヶ月近く続いた清洲会議もやっと終わったらしい。

(斯波)義統も大国の使者を相手に面目が立った。


しかし、丸く収まった訳ではない。

北信濃は決裂した。

武田家が領有を主張し、長尾家が猛反対して合意することはなかった。

武田家ははじめから武力による決着と決めていた。

公方様の願いが叶うかはまったく流動的である。


だが、そういう難しい駆け引きは幸菊に判らない。

清洲で守護の(斯波)義統とあいさつを交わし、守護代の信長の元に向かうと、信長と魯坊丸が何かを言い合っていた。


信長の面立ちはつぶらな瞳の魯坊丸と違い、少し狐目のような鋭さがあったが、ほっそりとした美しい顔立ちで『源氏物語』に登場する頭中将 とうのちゅうじょうのような雅な趣があった。

魯坊丸は少し眉を吊り上げて、頬を膨らませて怒っていた。

その姿も可愛らしく、二人がじゃれ合っているようにしか見えない。

眼福、眼福!

どうやら織田家は美形揃いだ。

男らしい北条家の男衆も嫌いではないが、雅さが零れる織田家も悪くないと思いはじめていた。

こちらに気付いたようで喧嘩を止めて出迎えてくれた。


 ◇◇◇


清洲で歓迎の式が催され、翌日は中根南城に到着した。

街道には木々が植えられ、竹林が其処となく乱立しているので気が付かなかったが、宗哲に説明されて中根南城の大きさに驚かされた。

町がすっぽり入るほどの大きな城だったのだ。


「お連れの方には非常に申し訳ございませんが、三の丸、二の丸、本丸以外の曲輪に向われないようにお願い致します」


出迎えてくれた侍女が幸菊の荷物を持っている下男の得丸を見て警告する。


「ふふふ、得丸が風魔忍と悟られたのだ」

「そうなのですか? 知りませんでした!」

「魯坊丸の周りは甲賀の忍びで固められているそうだ。皆、心しておけ!」


宗哲の警告に幸菊の供が一斉に頭を下げた。

まず、本丸の屋敷から渡り廊下で離れに移動する。

真新しい出来たばかりの離れの屋敷が3つ建っていた。

そこには小さな調理場と倉庫も完備されている。


「池が境界線になっております。そこまでなら花や野菜を植えて頂いても結構です」

「花ですか?」

「曲輪の1つに花園があり、家臣に命じて貰えば、お好きなように植えさせます。兄上(信長)の妻の帰蝶義姉上は季節の花々を植えられています。季節の花を楽しみたいと申されるならそうさせます」

「その花園を見に行けますか?」

「申し訳ございません。しばらくはご遠慮下さい」


その曲輪の花園は花園でも薬草園であり、毒草園でもあった。

観賞用の花をついでに育てているに過ぎない。

毒だらけの危険な場所に連れて行ける訳もなかったのだ。


屋敷に入って幸菊は驚いた。

用意された着物、家具、化粧道具、小さな湯殿、そして、布団と見るものすべてが珍しい。

幸菊は興奮して熱を出しそうになってしまう。

歓迎されているのが伝わって来て大満足であった。

ふかふか布団に寝転がると、そのまま寝息立てて寝てしまいたい。

だが、それは宗哲に耳を摘まれて阻止された。


「大叔父上、痛いです」

「ここは敵地と思え、油断するではない」

「はい」

「まったく!」

「でも、織田とは完全な同盟を結ぶつもりなのですよね!」

「これだけ見せ付けられて、戦を仕掛ける奴は相当な天才か、馬鹿だけだ!」

「難しいことは判りませんが、織田が凄いことは判ります」

「だからと言って油断をするな!」


そして、夕食前に呼ばれて、六角家の養女と武田家の姫を紹介された。

これが私の宿敵!

豊良方とよらのかたは8歳、真理姫まりひめは3歳だ。


「早川様、よろしくお願いします」

「ちぃまちゅ」


まぁ、何て愛らしい。

意気込んだ幸菊は毒気を抜かれた。

私はお姉様として君臨せねば!

肉料理も美味しかった。


翌朝、魯坊丸の妹のお市様とお栄様がやって来た。


「やっと謹慎が解けたのじゃ」


お市様とお栄様はどちらも可愛い姫様であり、どちらも魯坊丸様が大好きなことがよく判る。

そのお市達を残して、幸菊は魯坊丸と一緒に宗哲の見送りに熱田の湊に向かった。

宗哲らとの別れがやって来た。

別の船には公家様の一行が乗っており、少し遅れて湊を出て行った。


「やっと帰った!」


船が見えなくなると、魯坊丸が手を上に伸ばして呟いた。

やはり、迷惑だったのだろうか?


「迷惑と言うより、肩が凝りませんか?」

「確かに凝りました」

「でしょう。偉い方と付き合うのはこりごりです」

「仕事をするのも嫌だ!」


あらぁ、妙に弱気な事を言い始めた。


「俺は仕事もせずに、一日中ごろごろして過ごすのが夢なのだ。このまま逃げたい!」

「若様、逃げるのは構いませんが、あとで問題が大きくなり、仕事が倍になりますが、よろしいですか?」

「あぁ、それも嫌だ!」


余りの変貌ぶりに目を疑った。

ぐずぐず言いながら、魯坊丸は那古野、清洲、沓掛の仕事があるのでしばらく城に戻れないと言われて別れた。


「大弐、どういうことでしょうか?」

「まったく判りません」

「駄々を捏ねる魯坊丸様も年相応で可愛らしかったのですが、余りの変わりように驚きました」

「はい、まったく判りません。猫を被っていたようです」


多少の不安を覚えながら、幸菊は中根南城への帰路に着いた。

皆がいなくなると少し寂しい。

大門を通って、本丸の玄関に戻って来た。


「ただいま戻りました」

「遅い、待ちくたびれたのじゃ!」


お市が攻撃的な声で騒いだ。


「魯兄じゃの妻じゃと? 片腹痛いわ! 魯兄じゃの妻には千代姉じゃのように、強く、賢くあらねばならぬ。わらわが試してやるのじゃ!」

「お市様、何でしょうか?」

「わらわと勝負じゃ!」


お市がびしっと指を幸菊に差して宣言した。

「お市様、お昼までには終わって下さい」

「義母上、すぐに終わらせるから大丈夫なのじゃ」

「えっ、私とですか?」

「残るのはお主だけじゃ!」


すでに豊良方と真理姫は撃退されたようだ。

また、魯坊丸の母君も止めるつもりもない。


「イザぁ、尋常に勝負じゃ」


小さな挑戦者に幸菊は困った。

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