閑話.早川日記(1) 早川殿、びっくりする。
その日、ミツウロコの家紋を靡かせて、帆を一杯に張った110石の
小田原近郊の早川郷には北条一門の長老である北条宗哲(後の幻庵)の所領があり、幸菊はそこに預けられていた。
幸菊は
お相手である龍王丸には
幸菊は早川郷にある宗哲の邸宅で行儀作法の練習をさせられていたのだ。
「姫様、直ちに登城せよとのご命令でございます」
「
「わたくしも存じ上げません」
幸菊付きの侍女である大弐も何も知らされていないらしい。
以前、登城を言われた時は、龍王丸との婚儀の話であった。
またか!
うんざりする気分ですぐに準備を始めた。
「えっ、織田家に嫁ぐのですか?」
登城すると父氏康の部屋に通されて、そう言われた。
横にいる母は終始困り顔であった。
母の母はあの怖い怖い寿桂尼であり、北条家と今川家が同盟を結ぶことで、昔のように行き来ができるようになることを喜んでいた。
幸菊はあまり今川家を贔屓しないように母と離されて暮らしていたので、母のように今川家に特別な感情はなかったが流石に驚いた。
「殿、歳の頃合いを見れば、なな(後の
「すでに、叔父上(宗哲)が決めたことを覆す訳にいかん」
「ですが、お相手は7歳と聞きます。ななでも年上になります」
「正室の子を望んでおられる」
幸菊はびっくりを通り越し、頭の中がパニックだ。
えっ、九つも年下の子が旦那様になるの?
しかも織田家?
織田家って、どこだったけ?
「織田家は尾張にある。そなたの婿は織田信秀の10男の
「嫡男ではないのですか?」
「わずか7歳にて、従五位下
「そうですか?」
幸菊はどうもピンと来なかった。
それよりも2日後に船が出港するので準備するように言われた方がまたまたびっくりだ。
今川家に持って行くハズの引き出物をそのまま使う。
婚儀の服ももう一度だけ袖を通して調整をした。
供の者になる者とあいさつを交わし、お気に入り道具を箱に詰め直した。
慌ただしくしている間に出港日となった。
供の一人に大弐が入っていたことが唯一の慰めであった。
「姫様、来年になれば、北条家からもう一人姫を織田家に送るそうです」
「そうなのですか?」
「はい、そう御当主様の側近から聞きました」
幸菊は色々なショックで氏康の声が届いていなかった。
それを察した氏康は側近を通じて、大弐に色々と伝えてくれていた。
従兄弟か、はとこになるらしい。
お相手は尾張守護代の信長と言う方の側室だ。
だが、北条家から二人も姫を出して、一人も貰わないと言う訳にいかない。
信長という方がどんな姫を送ってくれるかで相手が変わってくる。
いずれにしろ、知り合いの姫が来るのは嬉しかった。
「大弐、織田家とは、父上が気になさるほど強いのですか?」
「殿が一番に厄介と思われております。今川軍を片手で破ったそうです」
「片手?」
「義元公は織田家が戦をしている背後から襲ったそうですが、残っていた1,500人だけで、今川2万の大軍を追い払ったそうです。しかも京では、三好2万5千も700人の兵で壊滅させているそうです」
幸菊は目が点になった。
義元公が厄介な敵であることは宗哲から何度も聞いて知っていた。
そして、三好と言えば、畿内で敵なしと言われる大大名である。
その二家を相手に勝ってしまうなど、話を盛り過ぎと思った。
「姫様の旦那様は、神仏のようにお強いそうです」
7歳の子供がそんなに強い訳がない。
おとぎ話だ!
誰がそんな話をしているのだろうか?
少し疑問に思ったが、戦国の姫は敵国に送られる運命だ。
相手の国で気にいられて、少しでも北条家との繋がりを強くするのが姫の役目だ。
与太話などどうでもよい。
聞いた所で嫁ぎ先が変わる訳ではない。
幸菊はそう思って割り切った。
船は日が沈むと湊に入り、早朝から出港するという行程を繰り返して東海を南下した。
何日も船に揺られて、熱田の湊に入る頃には元気が取り柄の幸菊もぐったりする。
何かあるといけないと陸に上がらせて貰えなかったのだ。
疲れた。
熱田の湊に到着し、船を降りて熱田の埠頭に立っても、まだ地面が揺れているように感じた。
「姫様、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。少し目眩がするだけです」
しばらく、近くの屋敷に案内されて休ませて貰った。
伝令を出し、迎えが来る前に身なりだけは整え直した。
「おぉ、無事に到着して何よりだ!」
大叔父の宗哲が幸菊の到着を喜んでくれた。
幸菊も顔が綻ぶ。
やっと落ち着いた気分になれた。
「紹介しよう。こちらが婿殿の魯坊丸様だ」
幸菊は顔をそちらに向けた。
魯坊丸は立っていた。
その目の色は優しく、目鼻がすっと立って、やんわりと微笑む口元が柔らかそうであり、まるで絵草子に出てくる貴公子の幼い姿のように可愛らしい
「始めまして、
幸菊は返事も忘れてぼっと見つめていた。
◇◇◇
幸菊の生活はこの日を境に平穏とは無縁の世界に飛び出した。
えっ、えっ、えっ、えぇぇぇぇ、どういうことですか?
熱田の湊から熱田神社の館に移った幸菊を迎えてくれたのは、元関白の
幸菊は公家の作法を思い出しながらあいさつをした。
怖い怖い怖い
お褒めを頂いて、大叔父の宗哲も満足そうだ。
でも、この
そんな情けない心の声を出しながら、大叔父の宗哲より上座の近くに座らされて、目をきょろきょろとしてしまう。
私の方が上座なの?
魯坊丸は元関白様と右近衛大将様と普通にしゃべっている。
幸菊は声が掛かりませんようにと祈りながら俯いている。
「どうですか? 尾張に来た感想は?」
「そ、その…………あのぉ」
「稙家様、早川殿を虐めないで下さい。まだ、着いたばかりで何も見ておりません。感想はおいおいと言うことで」
「では、そなたの感想はどうだ?」
「こんな美しい方に来て頂き、私(俺)には勿体ない限り、本当に申し訳ない限りでございます」
「確かに勿体ないな! 今からでも宣言を撤回してはどうか?」
「そのつもりはございません。本当に申し訳ない限りでございます」
「あのぉ、申し訳ないとは?」
「はい、ご覧の通り、私(俺)はまだ元服もしておりませんし、すぐにするつもりもございません。早川殿には申し訳ないですが、元服するまでお待ち頂くことになっております」
言葉が凄く丁寧だったが、要するに6年間は元服しないと言う。
えぇ、私、20歳を超えて行き遅れじゃない。
マジで焦った。
こんなに可愛らしく、元関白様を相手にも堂々としている
でも、6年も婚儀が先と言うのはちょっと嫌ぁ!
女の子の婚儀は13歳くらいが普通であり、16歳の幸菊は少し遅いくらいだ。
もう20歳を越えたら、オバサンである。
『すまん』
大叔父の宗哲は声を上げずに両手を合わせて謝っている。
今川家が織田家に負けた。
同盟を見直す為に龍王丸との婚儀が先送りになる。
何年も保留されると幸菊は行き遅れになる危険性があった。
大叔父の宗哲の気づかいであった!
年下ではあるが、才気あふれる魯坊丸との婚儀は渡りに舟と思ったようだ。
「宗哲殿、これほどの逸材を側室にしておくのは勿体ないのではないか?」
側室?
幸菊の耳に不穏な言葉が過った。
正室は皇女様で、側室の第一夫人の座すら決まっていない。
管領代の近江六角氏と八国守護の出雲尼子氏?
その姫の名が上がっていた。
どちらも北条家と引けを取らない所か、家格では負けていた。
『すまん』
もう一度、大叔父の宗哲は声を上げずに両手を合わせて謝っている。
こんな状態で料理が運ばれて来ても、味なんて判りませ…………えっ、美味しいわ!
幸菊は次々と出される料理に箸を付けるともう止まらない。
海の幸も山の幸も、どれも美味しい。
尾張はこんなに美味しいごはんが食べられる所なの?
「魯坊丸、今日は随分と質素な料理だな?」
元関白様の声にびっくりする。
この料理が質素ですって?
「早川殿は船旅でお疲れです。消化の良い物を中心に、見慣れた食事の方が食も進むと考えました」
「なるほど、確かに見慣れた料理だ」
「偶には、こういう料理も良いと思います」
「晴通はすっかり尾張に慣れてしまったな!」
「京に帰るのが辛ろうございます」
元関白様と右近衛大将様は明後日に京に帰るらしい。
忘れよう。
幸菊は自分には関係ないと脳裏の隅に追いやろうとした。
「早川殿もご一緒に京でお会いしましょう」
「皆を連れて、また京に上がって来て下さい」
「善処致します」
魯坊丸が凄く爽やかな笑顔で答えている。
それは決定なの?
京に上がりたいと思っていたが、元関白様と右近衛大将様が待っているとなると、急に行きたくなくなった。
お腹が痛いよ。
単なる食べ過ぎであった。
◇◇◇
えっ、えっ、えっ、えっ、えっ、えぇぇぇぇ!?
食事が終わると、お風呂がある。
サウナではなく、伊豆の温泉のようなお風呂だ。
足を延ばしてのんびりできる。
「姫様、余り長く入っておられますとのぼせますよ」
「お風呂よ。入り貯めしないと!」
「尾張では毎日のように入れるそうです」
「嘘でしょう?」
伊豆の山奥の寺では気軽く温泉に入れる変わりに食事がお粗末になる。
屋敷に戻ると食事が良くなるが、サウナか、水浴びになってしまう。
相模ではどちらかしか選べない。
「姫様、一度お上がり下さい」
「これは何ですか?」
熱田神社の女官が、『柔らか石鹸』と『髪用石鹸』と言った物を持って来た。
女官達が幸菊の体をヘチマたわしでごしごしと洗ってくれる。
それが終わると、女官の手で頭をごしごしと洗う。
髪が傷む!
そんな心配を他所に洗い終わると、湯船にもう一度浸かってから上がった。
タオルと呼ばれる布で体と髪の隅々まで水気を取った。
嘘ぉ!
「大弐、見てみなさい。髪がつやつやです」
「大変にお美しくなられておられます」
にへへへ、髪の美しさに思わずに破顔してしまう。
きらきらと光る髪などはじめての体験であった。
「大弐、母上様にお知らせしましょう」
「それでしたら、魯坊丸様に頼んで、宗哲様のお土産にして頂くようにお頼みするのはどうでしょうか?」
「素晴らしい着想(アイデア)です。できれば、姉妹や従兄弟の分をお願いしてみます」
「織田様は大層ご裕福ですから、きっと聞き届けて頂けると思います」
「大弐、紙と筆を用意して下さい。母上にお手紙を書きます。そして、この感動を日記に書き綴っておきます」
幸菊はその日から日記を付けることにしたそうだ。
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