第2話 軍曹、魯坊丸。
沓掛城の一室には大学のような講義室に小学生が使うような木机と椅子が用意され、そこに黒鍬衆100名と予科生200名が座っていた。
障子が開いて俺が入ってくると、起立などと言う声は掛からなくとも一斉に直立不動で立ち上がった。
よく鍛錬できている。
教壇の後ろには、俺専用の御立台が用意されて、三段の台座に登って教壇を叩いた。
「諸君、この講義を執り行う魯坊丸軍曹である」
俺がそう言うと、俺の左横に立って、後ろで腕を組んだ武蔵が大きな声で復唱する。
横で聞いている俺の耳が少し痛くなるような大きな声だ。
俺が周囲を見渡すと皆が着席する。
それを待ってから俺は発言を開始する。
「俺の指示なく一切の発言を禁止する。
余計なことはする。
難しくて出来ないなど聞くつもりもない。
返事の後に必ず『サー』を付けろ」
そう言うと、最左前の黒鍬衆を指差すと、すたっと立ち上がって返事をした。
「関上等兵」
「イエス、サー!」
「そうだ。それが正しい返事だ」
「判らない場合は?」
「ノー、サー!」
「判ったな。二度と言わん。一度で覚えろ。いいか、ウジ虫ども」
「イエス、サー!」
関が答えた。
だが、俺は怒鳴った。
「ふざけるな。全員で返事しろ」
俺は『ウジ虫ども』と複数系で言った。
全員に言ったのだ!
俺の怒鳴り声に武蔵が反応して音量を上げたので音速の壁が全員を突き抜けて、背筋を正して顔が引き締まる。
一言一句、聞き漏らさぬように言われたことを思い出したようだ。
一斉に立ち上がった。
『イエス、サー!』
『イ、イエス、サー!』
声を合わせて、全員で返事を返した。
その異様な雰囲気にポカンと口を開いている者がいる。
最右翼の後方だ。
彼らは半年ほど予科生として教練を受けた者であり、最後の選抜で選ばれて来た。
一年学んでも研修に耐えられないと落第した者の補充員であり、一年の課程を半年で終えた将来が有望な若者達だ。
その一人、呆気を取られて立つのも忘れたのが藤三郎だ。
残る9人も遅れて立ち上がり、返事にも戸惑っていた。
「まだ、判らないのか? 藤三郎三等兵。
何故、立ち上がらん。
その後ろも遅い。
俺は優しいので一度目は許そう。
だが、二度目はない。
ここを戦場と心得ろ」
はじめての俺の講義、俺の変貌に10人が戸惑っている。
『イエス、サー!』
藤三郎も立ち上がり、皆で取り敢えずは返事をしてくれた。
だが、藤三郎が余計なひと言を付け加える。
「魯坊丸様、どういうことですか?」
「馬鹿者、『サー』を付けろと言った。貴様の頭はウジ虫以下か、よく聞け、糞虫共」
今度は『共』にちゃんと反応して全員が答える。
『イエス、サー!』
俺が軽く手を上げてから下げた。
着席の合図だ。
立ったり座ったり、忙しい講義だ。
「下らん質問だが、教えてやろう。初代の黒鍬衆に俺は糞丁寧に教えてやった。だが、結果はどうであったか? 誰も理解できなかった。『卵』を知らずに目玉焼きが焼けるか?」
『ノー、サー!』
「そうだ、俺は『卵』を教えている。『卵』が何であるかなど、知る必要もない。九九を教えたとき、論語、孫子を教えたとき、その意味を教えたか?」
『ノー、サー!』
「そうだ、意味などすべてを覚えた後に考えればよい。化学式も、数学も、鉱物学、天文学、構造学などやることは山ほどある。他国はお前らの成長を待ってはくれん。すぐに覚えなければ、生き残れん。判ったか、糞虫共」
『イエス、サー!』
「すべての課程を終えたとき、お前らは一流の黒鍬衆となる。初代と2代目は俺の講義を受けた。幸いなことに3代目は一度も受けずに黒鍬衆となれた。非常に嬉しいことだ。だが、俺は戻って来た。何故だ?」
『ノー、サー!』
「そんなことも判らんか?」
一斉に返事をする中で返事をせず、すっと一人の手が上がる。
「太郎上等兵、言ってみろ」
「我々が戦に勝ったからであります」
「そうだ、戦に勝って浮かれている馬鹿共達は何も判っていない愚か者だ。自分で背負えぬ荷物を背負っても何の役にも立たん。勝ったことを喜ぶ前に、人材が育っていないことを痛感しろ」
『イエス、サー!』
「だが、安心しろ。俺がお前らを一流の黒鍬衆に育てやる。最強の軍団にしてやる。疑うな。 ただ、俺を信じろ」
『イエス、サー!』
「判ったか? 藤三郎三等兵、不用意に発言したお前の罰は明日一日のオカズなしだ」
「酷いです」
「馬鹿者、発言をいつ許した。罰は三日とする」
藤三郎が再び声を上げようとしたが思い留まった。
「それで良し。下らんことに割く時間はお前らにない。ただひたすらに一言一句を記憶せよ。それができる日まで、お前らはウジ虫だ。使い古されたスコップほどの価値もない。俺は厳しいが差別はしない。平等に刈り取るだけだ。役立たずは必要ない」
「必ず、私は魯坊丸様のお役に!?」
藤三郎は「役立たず」と言われて思わず反応した。
彼は武家出身の予科生だ。
村を失って放浪者でも河原者や
貧しいが武家の三男であり、寺小屋で認められて神学校に入学し、その神学校も一年で卒業した。そして、武闘派の彼は文官ではなく、黒鍬衆予科生を選択した。
俺の直臣になることに憧れている。
その俺からウジ虫、糞虫、役立たずと言われてプライドが傷ついたようだ。
神学校にエリート(武家)が入学するようになって来た弊害だ。
そして、3度目の失敗は実力行使になる。
桜、楓が素早く藤三郎の懐に入って、腹部に痛い一発をお見舞いした。
「軍曹は発言を許していません」
「発言するときは手を上げて許可を貰って下さい」
「3日の次は7日になります」
「その7日の間に問題を起こした班は全体責任が問われます」
「よく覚えて下さい」
偉そうに桜と楓が言う。
だが、この二人、千代女と一緒に講義を一番に聞いているのだが、まったく理解できていない。
破片すら覚えていない。
一方、紅葉は同じように机に座って、一言一句を書き綴ってゆく。
紅葉が書いたメモは神学校に送られて、新しい教材として増やされてゆく。
紅葉はすべて覚えているのに理解に至らない。
不思議だ?
そんなことを言っている間に千代女が大きな紙を壁に張っていた。
俺は指示棒を取って化学式を差した。
「この元素記号の炭素〔C〕を理解した奴はいるか? この化学式を理解した奴はいるか? いないだろう! だが、その通りに配合すれば、火薬ができる。薬もできる。測量で使っている数式を完全に理解した者はいるか?」
『ノー、サー!』
そう自信を持って全員に全力で否定されると、俺の心もちょっと折れる。
「そうだ、理解などせずとも使えればよい。言った通りに計算すれば、数字は見語な地図へと変わる。すべてを使いこなせ! それでお前らは人になる」
『イエス、サー!』
「では、今日の講義の『
言っておくが、これは理想的な絵図だ。
実際は地形に応じて作り変える必要がある。
この堤は他の堤と違い、水の勢いを殺し、堤防の決壊を防ぐことを念頭に置いた設計だ。
水量が土手を越えるのは想定内である。
まず、越えた河の水を調整池で支える。
その土手を越えたら、その外の田畑でそれを受け止める。
最後に曲輪で水を堰き止める。
曲輪の中の田が無事ならば、最低限の収穫量が確保できる。
これを越えた時は諦めろ。
所詮、人は神仏を越えられない。
だが、少しでも抗う為の『
人の知恵を注ぎ込め。
はじめからある丘や岩を利用しろ。
設計1つで氾濫を防ぐことができる。
夏前に測量を終えた後に、全班には境川の河川計画を立案して貰う。
一箇所でも俺を唸らせろ」
『イエス、サー!』
「では、流水学を踏まえて講義を行う」
俺の言ったことを千代女が白紙の大紙に墨で書いてゆく。
「軍曹、ここはどういう意味でしょう?」
千代女もここでは俺を軍曹と呼ぶ。
俺は千代女に教えている。
その次いでに武蔵の声で拡張して皆に聞かせている。
はじめから理解できるなんて思っていない。
『論語読みの論語知らず』
知ったかぶりでしゃべらないなら、それは立派な教養だ。
実践できていないのに偉そうに言うから駄目なのだ。
論語を理解していないと知ってさえいれば、それでいい。
知っているだけでも優秀だと俺は思う。
そして、色々な物を詰めて行くと、ある日突然に理解できる。
俺はそんなモノだと思っている。
大切なことは途中で止めないこと。
理解できるまで詰め込んで行かなければ到達できない。
学校に入学できることが到達点ではない。
理解できる日が到達点なのだ。
『詰め込み教育、万歳』
俺の体力が尽きて、突然に寝落ちする。
「軍曹」
千代女が俺を抱きかかえる。
「軍曹は眠りに付きました。今日の講義はここまでとします」
『軍曹に敬礼』
びしっと決まった。
澄ましていれば可愛い顔なのだが、頬の筋肉も弛んでだらしない顔の俺を見て皆が微笑む。
横暴で独善的で身勝手な俺だが。
意外に嫌われていないのは不思議なことだ。
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