閑話.多事多難(6)。
天文22年4月18日、信長の出陣した朝も熱田は普通に市が立ち、活気が湧いていた。
残念ながらまだ海が荒れていたので朝一の漁はなく、今日も魚市場は閑散としていた。
熱田の宿には様々な国から来た行商や浪人が溢れていた。
浪人らは昨日から荒れていた。
「ここで一旗上げて仕官するつもりだったのに、どういうことだ?」
織田家では大戦がある度に大量の浪人や加世者を召し抱えて戦に赴いた。
清洲で大戦がある。
そんな噂がどこからか立ち、お家を再興しようとか、腕自慢が仕官しようとか、銭を稼ごうと傭兵達が集まっていた。
ところが、信長は陣触れを出しても町で参集を行わない。
傭兵たちは働き口を失った。
神社や寺の境内を寝床にしていた加世者らもがっかりだ。
ただ、那古野は人手不足であり、戦が終われば土方として雇ってくれる。
役人にそう説明されて尾張に集まって来た加世者らは戦が終わるのを心待ちにしていた。
不貞腐れる浪人や傭兵らとは対称的であった。
泥臭い土方から足軽になる道を聞いても心がときめかない。
敵の武将の首を取って、その場で仕官か、大金を貰う。
そんな
「信秀様は豪気なお方であったが、信長はケチだ」
参陣も許されない浪人や傭兵が不貞腐れるのも仕方ない。
そんな部屋の一角で『くすり』と書いた旗を立てている大柄の行商人がいた。
他にも数人が取り囲んでいた。
一見、行商人のように見えるが、もう日が昇って随分経つ。
市も立っているのに、まだ宿に残っている。
普通の行商人ではない。
また、一人。
宿に戻って来て、その大柄な男の前に座った。
「先程、那古野から早馬が来て、奉行所の方に入ってゆきました」
「付けられたな!」
なっ、男が思わず後ろを振り返った。
商人の小娘のような女が立っていた。
慌てた男が懐から小刀を取り出そうとするが、すっと間合いを詰めて小刀を抜こうとする男の手を手の平で押さえた。
「無粋な物はお下げください」
「止めておけ、お前では敵わん」
「判りました」
大柄な行商人は窓から顔を出して辺りを見回した。
軽く20人が取り囲んでいる。
だが、殺気がない。
すぐに襲う気がないようだ。
「用件を聞こう」
「風魔の小太郎様とお見受けいたします」
「如何にも」
風魔小太郎は風魔一族の棟梁が代々受け継ぐ名前だ。
その小太郎には、先代や先々代、あるいは競いあった者が棟梁の分身と各地で仕事を行う。
この小太郎もその分身の一人でしか過ぎない。
現代風に言えば、伊勢、尾張、美濃、三河を任されている地方司令官と言った所だろう。
そう言っても部下はたったの10人しかいない。
「元締めより、風魔御一行をご招待するように伺って参りました」
「招待とは?」
「後、しばらく致しますと、熱田奉行より『非常事態』が宣言されます。そうなりますと、熱田の者は避難を行います。もちろん、熱田に来て頂いている者も所定の位置に避難して頂きます。熱田に来た方に被害が及んでは大変でございます」
「隔離すると言うことか?」
「はい、戦の最中に後から町で火を付けるなど暴れられても困るのです」
「従わぬと言えば?」
「根絶やしに致します」
ふふふ、小太郎が笑った。
目の前の小娘はそれなりの力量を持っている。
同程度が20人もいるとすれば、5人しかいない小太郎らは確かに危ない。
いるとは思えぬが、危ない橋を渡ることもない。
「ご安心下さい。今川と同盟を結び、後背を攪乱する危険な方々は油の堀に囲まれた快適な避難所にお連れ致しますが、交易でも良好な北条様には特等席を用意致しました」
「油の堀だと?」
「どなたかが逃げ出さない限りは、皆、ご無事でございます。無用な殺生は致しません」
「特等席とは?」
「戦場が見える場所でございます。我が主様は開明的な方でございます。敵でなければ、見せても構わないと申しております。心配と言えば、他のお味方もこちらの指示に従って頂けるのを祈るばかりでございます」
すべてお見通しという雰囲気で小娘が言う。
どこまで織田が把握しているのか?
試してみるのも面白いと思うが、小太郎は無理をしなかった。
「仕方ない。どこに連れてゆく?」
「今川が織田の隙を突いて、笠寺から攻めてくるかもしれません。山崎の関所の壁の上にご案内致します。もちろん、舟で今川が攻めて来た場合は、戦って頂きます。そちらはご了承下さい」
「雇いたいと言うことか?」
「銭は払いますが、そうではございません」
小娘は銭を払うと言った。
守備兵として雇うのは間違いないようだ。
「今川は舟を多く持っておりません。攻めてくるならば、井戸田でしょう。ご覧になるには見晴らしが良い場所でございます。もちろん、美濃や近江の方は別の特等席にご案内しております」
「同盟の美濃と同等に扱ってくれるのか?」
「同等かどうかは存じ上げません。ただ、下手に動かれるくらいならば、いつでも殺せる場所に置いておく方がこちらも楽でございます」
殺す!
そうはっきりと小娘が言った。
小太郎がその意味を知る訳もない。
非番の忍びが参集されると、非常事態が宣言される。
警備に当たっている忍びの半数が守備兵に回される。
町にいる忍びが半分に減る。
数が減る前に厄介そうな者を隔離し、また、他を壁に並べていつでも後から撃ち易いようにする。
熱田に来た客まで安全を考えてくれる織田は何て良心的なのだろうと思っているかもしれないが、実際はまったく真逆な対応なのだ。
そして、防衛に協力してくれる方に特別な報償が出される。
傭兵や加世者も大喜びだ。
「そちらの御武家様、お暇でしたらよいお仕事をご紹介致しましょうか?」
小娘は不貞腐れていた浪人や傭兵にも声を掛けた。
ホント、避難所で暴れられるのも面倒なのだ。
危険な方は危険な場所へ。
親切なように見せたトリアージ(選別)であった。
「お近くにお仲間がいるならば、一緒に連れてゆくことをお奨め致します。町を徘徊するだけで処分の対象となります」
優しい言葉で恐ろしいことをさらりと言う小娘であった。
もちろん、トリアージ(選別)しているのは忍びだけではない。
むしろ、同じ忍びを先に捌いている。
一般の処理は奉行所の者が来て行った。
結果論を言うならば、ここで誘われた浪人と傭兵は運がなかった。
熱田の湊に配置された者は松巨島に渡って戦い、褒美も貰え、仕官の話もあった。
山崎の関所の者は戦況を唖然として見るだけで終わったのだ。
小太郎は戦が終わるとすぐに相模に配下の者を帰した。
だが、今川を経由する舟がまだ使えない。
美濃を経由して、信濃、甲斐、そこから相模に帰っていった。
周りの行商や旅人がすべて間者に思える奇妙な光景だ。
北条は武田と同盟を結んだばかりだ。
それで武田を楽に通過できたことが幸いした。
6日後の24日には小田原に伝わった。
【北条】
元々、半独立的な土豪達は里見家の支配に反発を覚えていた。
里見家の勢力が増大するに従って、土豪達の独立性が侵されてきたことが反発の原因だった。
そこに氏康は土豪達に知行を安堵し、物資を援助した。
こうして、昨年から里見傘下の土豪達が叛旗を翻した。
そうして、武田晴信との婚姻による同盟が成立した時点で北条は兵を動かした。
武田勢が北信濃に侵攻しているので、越後の
里見の支城や砦が1つ、また、1つと落ちていった。
「氏康、いるか?」
「これは叔父上、どうかされましたか?」
小田原城の氏康の部屋に入って来たのは、
宗哲は初代
近江・三井寺に入寺して出家していたが、父の早雲に呼ばれて伊豆に入った。
兄の氏綱が早雲の遺志を継いで箱根権現を再造営し、箱根権現の40世別当になって
また、箱根に4,400貫の所領を与えられていた。
その伊豆・箱根こそ、風魔一族の寝床だ。
また、祖父早雲の子である宗哲の発言力は大きかった。
「少し動きたい」
「白備の伊豆衆を動かされるのですか?」
「違う。久留里城(里見の本城)を襲うのは、まだ早い」
「では、どこに?」
「尾張だ」
宗哲は今川義元が動いたことを察していた。
義元が襲われたと言うのに駿河の兵が減ってゆく。
どう考えてもおかしい。
三河、遠江の厳重さに比べて、駿河はザルである。
もちろん、風魔を抱えている宗哲だから知ることであり、他方の間者では知ることもできない。
その結論から今川が織田を攻めたと察したのだ。
18日に清洲攻めがあると報告を聞き、その日が決行日と察していた。
怪我を負ったと虚言を流し、油断させて織田を襲うつもりだ。
だからと言って、何か動ける訳でもない。
仮に織田に知らせに向わせても18日を過ぎてしまう。
まったく義元は油断ならない。
これで義元が尾張を取ったとなると非常に厄介だ。
この三国同盟で勢いを得るのは、何も北条だけではない。
次に伊勢を取るようなことがあれば、今川の水軍は北条を上回る。
そうなると北条はこれから戦を1つも負けることができなくなる。
いつ、義元が裏切って敵になるか判らない。
勢力が均衡していなければ、同盟など紙クズだ。
織田にがんばって貰わねば、北条が辛い。
そして、宗哲はその結果を待った。
戻って来た。
「何としても織田を見ておかねばならん」
「叔父上、誠ですか?」
「判らん。判らんが天地がひっくり返るような新兵器だ。この小田原城も織田の前には張りぼての城にされてしまう」
「叔父上、人は鳥ではありません」
「儂も信じられん。が、飛んでみせたらしい」
小田原城は氏康の父、氏綱が居城と決めた。
何度となく改修が行われて、強固な城となっていた。
籠城しても数か月は持つと自負していた。
「この小田原城は難攻不落です」
「どれほど堅固な城も空から攻められては何の役にも立たん」
「ですから、見間違いでございます」
「そうだ、見間違いかもしれん。だが、今川は敗北した。それは事実なのだ」
「父が精魂込めた小田原城が意味を無くすなど?」
「ゆえに、それを確かめばならん。今後の北条の方針が決まらん」
氏康は急ぎ一門衆を集めた。
そこでもやはり大勢は信じられないと言うものだ。
「風魔が裏切ったのではございませんか?」
突拍子もないことを言う者までいた。
今、ここで風魔が裏切って何の意味がある。
100歩譲っても、幻術で風魔らが騙されたと言う結論しかでない。
「どいつもこいつも馬鹿者が」
「宗哲様、お気を鎮め下さい」
「これが鎮められるか? もし、織田の新兵器を今川が、武田が、先に手に入れればどうなるか?」
「そもそも現実にあるか?」
「それゆえに確かめに行くと申しておる。今川は負けたのだ! その事実は覆らん。あの雪斎が無惨に敗れたとなれば、無視してよい訳がない。それが何故判らん」
「ですが、まだ里見との戦の最中なれば、宗哲様には居て頂かないと困ります」
「里見との決戦はまだ先だ。後背を固めなければ、伊豆を空けることができん」
「敗北した今川にその余力はなく、背後を気にする必要もございません」
「愚か者め! 今川が弱っておれば、武田が動く。武田が織田と同盟を結べば、今川を落とした勢いで北条を攻めてくるわ」
「まさか、同盟を無視する訳もございません」
「対等でない同盟など紙クズだ。それが何故判らん。勝ち戦に自惚れて、戦の仕方も忘れたか?」
宗哲の余りの用心深さにやれやれと溜息を付くが、それを覆すほどの論客もいない。
氏康は全権を委任して、宗哲を送り出すことを決めた。
「明日の早朝、足の一番早い舟三隻で出港する。(北条)
「畏まりました」
「叔父上、河越が手薄になります」
「しばらくは静かだ」
「明日の出港など無理です」
「戦は待ってくれん。直ちに整えよ」
そう言うと、次に
氏尭は氏康の弟で四男だ。
宗哲の後見を受けて、平井城の城将を務めていた。
はっきり言って、宗哲に頭が上がらない。
「氏尭、そのほうは駿河に寄って義元に見舞いの言葉を届けよ。可能な限り、情報を拾って追い駆けて来い」
「追い駆けるとは?」
「儂は義元に会わず、そのまま尾張に向かう」
嫌な役目だが、断る訳にもいかない。
「知ったことは氏康にすべて伝えよ。慌てて追ってくる必要はない。ゆっくりでよい。なるべく多くの者と会って話を聞いてから追い駆けて来い」
氏尭を待ちながら、ゆっくりと尾張に滞在するつもりのようだった。
北条家の要石、北条宗哲60歳。
元気なご老体に氏康も振り回されていた。
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