閑話.多事多難(5)。
蒸留酒と油の混合を全身に浴びた雪斎は火だるまになって転げた。
本陣はあちらこちらに飛び火して、火の海になった。
飛び出てきた黒衣の僧を家臣、従者、側近衆の者は布や砂を掛けて助けようとした。
だがしかし、雪斎は全身に火傷を負ってしまったのだ。
もう駄目かと思った雪斎であったが、鎧など外すと比較的に軽度で済んでいた。
治療すれば、助かるかもしれない。
今川の武将らは雪斎を助ける為に決戦を避けた。
結果、多くの武将の命が助かったのだ。
もし、決戦に挑んでいたならば、多くの今川の武将が笠寺の地で亡くなっていただろう。
そうであれば、義元も今川を立て直すのに苦心することになったに違いない。
瀕死の雪斎が今川を救ったのかもしれない。
三河に入ると藤林長門守らが薬師を連れて来て治療を施し、そのまま後退して牛久保城近くの大聖寺に泊まった所で雪斎は意識を取り戻した。
火を吸ってしまった雪斎は喉が焼けただれていた。
それでも肺まで達しなかったことが幸いしたのだ。
だが、瞼が癒着して目を開くことができず、喉が壊れて声を出すこともできない。
食べることなどもできない有様だ。
口に濡れた布を含ませて、何とか命を取り留めているだけであった。
雪斎の衰弱は酷かった。
雪斎は生きながら体が腐ってゆくと言う貴重な経験を得る。
ううううぉ、雪斎は言葉にならない呻き声を上げて何かを伝えようと足掻いた。
義元に伝えねばと雪斎は命を削った。
翌朝、兄の
享年58歳。
今川義元の右腕として補佐役に徹した『黒衣の宰相』が去っていった。
【今川】
忠職も雪斎の側近として本陣にいたので、酷い火傷を負っている。
忠職の後ろには重臣の
雪斎を守れなかったばかりか、
「雪斎は織田と戦うな。自分の死を隠せと言ったのだな」
「そう申しておりました」
耳だけは聞こえていたようで口の形をなぞり、「よ」、「し」、「も」、「と、義元公のことでございますな!」と答えるとわずかに手に力を入れる。
そんな覚束ない会話で何とか遺言らしいモノを残した。
他にも言っていたが、何を言おうとしているのか判らなかったのだ。
後悔ばかり積み重なった。
元信は雪斎の死体を荷物に隠し、身代わりに忠職が黒衣を着て海から舟に乗って駿河まで戻ってきた。
義元は遺言を守り、その死体を庵原忠職とした。
「この死体は庵原忠職に相違ないな」
「相違ございません」
「手厚く葬ってやってくれ」
「承知致しました」
これより忠職は雪斎として振る舞い、
一方、床に伏して動けない雪斎に代わって、義元が外征を行うことを宣言した。
「今年の秋に龍王丸を元服させて家督も譲る。そなたらは龍王丸の補佐役に入って貰う。雪斎は臨済寺で静養しておくように」
「某にできましょうか?」
「そなたにしかできん。元信、泰能、このことを知っているのはそなたら二人のみだ。力を合わせて龍王丸を助けてやってくれ!」
「承知致しました」、「死力を尽くします」
「他の重臣にも他言無用ぞ」
元信には義元の書状を持って、織田との和議の交渉に戻って貰った。
泰能は掛川城主に戻り、遠江衆の監視を行う。
他に諸将にも面談を行い、労いの言葉を掛けていった。
亡くなった者の家には詫び状も書かねばならない。
忙しくしている間に日が暮れてしまった。
蝋燭の火が灯る義元の部屋に藤林長門守が入ってきた。
「三河、遠江の様子はどうだ?」
「余りよろしくございません」
「であろうな!」
今川の大敗は珍しく、雪斎が出た戦で負けたことがなかった。
しかも屈辱的な敗退だ。
また、これに乗じて織田が三河に進出してくることも容易に想像できる。
今川に固まりつつあった豪族らの心が揺れていた。
反乱が起これば、義元自身が出陣して鎮圧せねばならない。
問題は織田がどこまで欲するかだ?
斯波の遠江所領を復権しようと、再び侵攻してくるとなると厄介であった。
こちらは公方様におすがりするしかない。
信勝が三河守を持っているので、西三河を譲渡する必要があるがあるかもしれない。
致し方なし。
義元は割り切った。
「武田はどうなっている?」
「村上を追い払い、葛尾城に入りましたが、越後勢の援軍を連れて戻って来たようです」
「やはり、越後が動いたか?」
「まだ、全軍ではございませんが、このまま武田が兵を進めれば、おそらくは…………」
(武田)晴信はこの戦で北信濃の平定をするつもりだ。
村上義清の葛尾城を落としたことで、北信濃への道が開けた。
北信濃の者と越後の者の親交が深いので越後勢が見過ごす訳もない。
援軍を送るのは当然であった。
このまま武田が押し切って信濃を統一すれば、武田勢は調子に乗る。
問題はその後だ。
遠い越後より敗戦し疲弊している駿河に目が向く。
それが一番拙い。
越後勢にがんばって貰いたい。
できれば、武田勢に大きな被害を出して欲しいと義元は思った。
だが、こればかりは義元の眼力を持っても読み切れなかった。
一方、北条は関東に手一杯であり、今川を襲うとは思えない。
しかし、同盟に関しては白紙に戻った。
北条と織田は元々同盟を結んでいたが、信秀の死によって霧消した。
今回の織田大勝利を聞けば、再び同盟を考えるに違いない。
「出口を失ったな!」
東に北条、北に武田、西に織田。
南は海が広がっていた。
今川は領地を拡大する場所を失った。
その中で一番脅威はやはり武田である。
晴信は今川が弱ったと見れば、襲ってくる猛禽である。
今川は武田に備えなければならない。
「長門守、尾張を調べろ!」
「申し訳ございません。尾張には忍びが多く、思うように動くことができません」
「それは承知している。だが、城や主な施設のみであろう。調べるのは町だ。商人ならば、出入り自由であったな」
「商人が動ける範囲ならば、問題はございません」
「どのような細かなことでも構わん。すべてを調べて我に知らせよ」
「畏まりました。直ちに手配致します」
「誰か、次郎兵衛尉(
友野宗善は駿河の商人衆の頭であり、義元は召し抱えてわざわざ商人頭に任命した。
義元は商人を優遇し、駿河の繁栄を築くことに成功した。
それが『東国の京』と言われる由縁であった。
しかし、それでは足りない。
織田のように小国であっても商人に直接関与して、より繁栄させる?
義元にもその辺りがよく判らない。
だが、織田にできたことが今川にできぬハズがない。
今川は領地拡大ができなくなった。
武士が商人の真似をするのか?
実に卑しいことだ。
だが、忌々しいが織田を真似る。
駿河のみで繁栄する道を模索するしかなかった。
「確か! 銭を稼ぎ、兵を雇うだったな?」
雪斎の死を悼みながら、義元は行く道の軌道修正を手探りではじめた。
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