閑話.信長の傷心。

信長は灰色のような溜息を付きながら熱田から那古野、そして、末森に続く道をお市と一緒に馬を進める。

お市は奇妙な大きな猪に跨っている。

少し活発な姫と思っていたが、この短い間でかなり変わった姫に昇華した。

くりくりとした愛らしい瞳を道中の人々に送り、時々は手を振ったりして答えている。

上洛を果たし、帝や公方様に拝謁した天女という称号を背負って戻って来た。


「どうかしたかや?」

「すっかり人気者だな」

「自分ではよく判らんのじゃ」

「そうであるか」

「そうなのじゃ」

「ところで魯坊丸はずっとあんな感じか?」


お市が頷いた。

覇気もなく、虚ろな目をした魯坊丸を信長ははじめて見た。

あれは生きることを諦めた死人の目だ。

魯坊丸にとってあの侍女がそれほど大事とは思わなかった。


「あの侍女は助かるのか?」

「助かるに決まっておる。わらわを助けてくれた命の恩人じゃ。死んで貰っては困るのじゃ」

「であるか」


清洲の戦いに勝ち、武衛様をお助けした信長の功績は大きい。

しかし、今川を退けた魯坊丸の功績はさらに大きかった。

あの今川を降伏させたのだ。

信長は各城の明け渡しに武将を手配し、後は敵の兵を尾張と三河の国境まで見送っただけである。

今川が尾張から引いたことで東尾張の岩崎丹羽氏に仕えていた土豪や豪族が一斉に蜂起し、諸輪城もろわじょう丹羽氏識にわうじさとは逃げ出し、藤枝城の丹羽堂隠にわどうおんは討ち取られた。

慌てた岩崎城の丹羽氏勝は城を捨てて、今川を頼った。

本郷城の丹羽左馬允にわさまのじょう、折戸城の丹羽四朗左衛門は織田に臣従する造反者と和議を結んだ。

信長は岩倉の信安と犬山の信清を残して尾張を統一したことになる。

完全に戸惑っていた。

さらに遅れて戻ってきた者らから京の話も聞いた。


「三好も倒したそうだな!」

「魯兄じゃに掛かれば、ちょちょいのちょいじゃ」

「そうか!」

「魯兄じゃは凄いのじゃ」

「そうだな! あれに尾張を治めさせた方が良さそうだな?」

「それは駄目なのじゃ」

「何故だ?」


天下の三好を退け、強敵の今川を手玉に取る。

儂にはとてもできないと信長は思う。

信長は自信家であり、敵の凄さを認めても屈服するようなことはしない。

だが、がんばって山の麓に辿り着くと、その山の頂が見えてきた。

父上(故信秀)と同じくらい高い山であった。


熱田から鳴海に移動している間に井戸田の山崎砦の話を聞き、魯坊丸が火薬を大量に保持しており、自分に黙ってそれを隠していたことに激怒した。

それがあれば、清洲を簡単に陥落させることができた。


「どうするのじゃ?」

「清州の門や壁をその火薬で吹き飛ばす。後は特に何もする必要もない。それだけの戦力差があるならば、兵糧攻めにする必要もない」

「勝ち目がないと判れば、敵も降ってくるのか?」

「そういうことだ」

「ならば、天より火薬玉を降らす魯兄じゃは、神に等しいくらいに恐ろしい相手となるのじゃ」

「であるな」


信長も島田城から常滑街道を走っている時に白鷺しらさぎが飛び立つのを見た。

そして、爆音が鳴り、火薬を使ったとすぐに悟った。

天より敵を攻撃する。

考えたこともない。

それは人の身技か?

神仏の領分に思え、信長の心も折れた。


籠城すら許さない絶対的な武力を魯坊丸ははじめから持っていたことになる。

今川を恐れない訳だ。

信長は魯坊丸が敵でなかったことをはじめて神に感謝した。

感謝しながら、魯坊丸を恐れている自分が情けなくなった。

高く伸びた鼻がぽきりと折れた。

お市が魯坊丸を「神に等しい」と言う。

儂はあれに勝つつもりだったのか?

信長の背中が猫のように丸くなり、自信のなさが露わになってゆく。


「儂では勝てん」

「何を言っておるのじゃ?」

「魯坊丸には勝てん」

「当然なのじゃ! 魯兄じゃは凄いのじゃ」

「そうか、やはり尾張は魯坊丸に任せた方がよいな!」


そう溜息を付くように吐き捨てる。

だが、お市は怒る。


「だから、それは駄目なのじゃ!」

「何故だ?」

「忙しくなると不機嫌になるのじゃ! 魯兄じゃは領主になるのでも嫌がっておる。国主などと言われたら、熱田から逃げ出して、どこかに行ってしまうのじゃ!」

「どうしてそうなる?」

「とにかく、忙しいのは駄目なのじゃ!」


確かにそう言われると、魯坊丸はいつも情けない言葉を繰り返していた。

城でごろごろとしたいとも言っていた。

野心も無ければ、覇気もない。

ただ、生意気なことを言う子供だったと思い出す。

そんな自堕落なことを言うので信長は魯坊丸を下に見ていた。


「あれは嘘ではなかったのか?」

「嘘ではない。本当に一日中ごろごろしたいだけなのじゃぞ」

「本当か?」

「わらわが嘘を付いてどうするのじゃ」


俄かに信じられないが、お市の話によると魯坊丸が本気で偉くはなりたくないと思っているらしい。

信長はそれを完全に信じていなかったし、どこかで本心を隠していると思っていた。

清洲の守りの砦を造らせた時、魯坊丸の性格を垣間見た気がしたことがあった。

魯坊丸は味方であれ、敵であれ、多くの人が死ぬことを嫌う。

信長は共感し、魯坊丸にどこか親しみを感じて信頼もしていた。

だが、違った。

砦で完成した時、魯坊丸は言ったのだ。


「清洲に残った兵を1,000人か、2000人か判りませんが、間引きしようと思っております」

「敵であっても労働力であろう?」

「残っている民はよろしいのですが、それを指揮する武将は土地に根付いた縁の者が多く、簡単に兄上(信長)に従わないと思うのです。兄上(信長)は清州に拠点を移されるつもりならば、厄介な武将は間引いた方がよろしいと思うのです」

「反対した者だけ処分すれば良いであろう」

「先程も言いました。土地に根付いた縁の者です。無闇に処分すれば、兄上(信長)の名に傷が付きますし、処分しなければ、不満と怨恨を残します。これは理屈ではないと思います。身内に近い者を殺された恨みです。簡単に消えません。ならば、そんな厄介な者は先に戦の中で処分しておいた方が後腐れもないと思うのです」


信長は魯坊丸の割り切りの良さを恐れた。

もし、信長が魯坊丸にとって不都合な者となれば、いずれは力を貯めて、堂々と寝首を掻く。

また、本人がそう思わなくとも周りがそれを唆す。

そんな微かな可能性を考えてしまった。

そして、思ったのだ。

何としても魯坊丸に負けない力を貯めないといけない。

信長が尾張を正しく治める力を示している限り、魯坊丸は軽薄な行動にでないとも信じられる。

魯坊丸は聡く、信頼に値する。

だが、信長が思う理想と微妙に違うことも判った。

信長は無辜の民を虐殺してまで統治を楽にしたいと思わない。

後腐れがないからと言う理由で処分する気になれない。

信長の正義と魯坊丸の正義がぶつかる日が来るかもしれない。

負けられない。

そう思って、信長は学んだ。

魯坊丸から多くの知恵を吸収した。

功菴こうあん平手久秀ひらて-ひさひで)に信長の考えを伝えて教えを乞うと、涙を流して感動されるほど、信長の成長を喜んでくれた。

信長は自信を付けた。

魯坊丸に追い付く。

それが信長の原動力に代わっていった。

だが、現実は違った。


「魯兄じゃは楽をしたいから、信兄じゃにがんばって欲しいだけなのじゃ」

「本気で言っておったのか?」

「うん、そうなのじゃ! 魯兄じゃもお市も手の届く範囲は狭い。自分の手の届く所より外を幸せにすると考えるのは傲慢じゃと言っておった」

「傲慢か?」

「信兄じゃは尾張中を幸せにしたいと考えるから凄いと褒めておったのじゃ」

「まさか、儂を褒めておっただと?」

「そんな面倒な事を絶対に引き受けないと言っておったのじゃ」

「ははは、あやつらしいな!」

「わらわも嫌なのじゃ。信兄じゃに期待するのじゃ」

「儂ががんばれば、魯坊丸とお市が喜ぶのか?」


お市が力強く相槌を打った。

どうやら、嘘ではないようだ。

理解できん。


「では、何故、お市は魯坊丸が国主になって欲しくないのだ? 魯坊丸が国主になれば、お市も大切にして貰えるであろう」

「魯兄じゃが忙しいと、わらわと遊んでくれんのじゃ! 料理も作ってくれなくなるのじゃ! わらわも知らん美味しい物を食べられなくなるのは絶対に嫌なのじゃ。信兄じゃ、がんばってたもれ!」

「儂ががんばるとどうなる?」

「魯兄じゃが暇になるのじゃ。暇になると、わらわと遊んでくれるし、美味しい物を沢山作ってくれるのじゃ」

「本気で言っておるのか?」

「嘘を言ってどうなのじゃ?」


お市が嬉しそうにそう言った。

嘘ではないらしい。

魯坊丸は本気で面倒だからと言う理由で、儂に尾張を押し付けたかっただけのか?

尾張に収まりきれない才がありながら、熱田に、否、中根南城に閉じ籠りたいと本気で考えておったのか?

儂と争わん為の詭弁でもなく、裏から暗躍して尾張を好きにする為の偽装でもなく、本気で言っておったのか?

背中から刃が迫ってくるような危機感など、最初からなかったと言うのか?

儂が怯えておったのは何であったのか?

信長は呆れた。

魯坊丸の都合で振り回されていたことに気付かされた。

信長が礼を弁えている限り、信長の正義と魯坊丸の正義がぶつかることなどなかったのだ。

自分の努力は何であったのか?

信長は自問自答してしまう。

余りの馬鹿らしさに力が抜けてしまう。

魯坊丸の身勝手さに振り回されただけであった。

だが、信長の心にカチャリとはまった。

そんな気がしてきた。


「お市、感謝する」

「よく判らんが、感謝されたのじゃ!」

「心の重しが取れたようだ」

「それは良かったのじゃ」


天すら制する悪童あくとうだ。

信長と力の差は歴然だった。

奪うつもりならば、いつでも奪えた。

トンでもない弟を持ったものだ。

そう思うと自然と笑いが込み上げてくる。


信長は天を見上げ、大きく息を吸い込んだ。

もう張り合うのは止めだ。

そう思うと肩の荷が軽くなってきたような気がした。

悪童あくとう悪童あくとうと言うことか!

ふん、信長は鼻を鳴らして息を吐いた。


これから信長には大変な苦労が襲ってくるのは承知していた。

その中で自分だけ楽をしたいと言う魯坊丸がいる。

あの悪童あくとうめ、儂を使って楽をしたいだと?

この儂を利用するだと!

一人だけ楽をさせてなるものか!

そう思いながら、信長は末森の門をくぐった。


 ◇◇◇


門の中で土田御前が待っていた。

お市が思わず逃げ出そうとする。

それを千雨ちさめらが止めた。


「お市様、それはなりません」

千雨ちさめ、わらわはまだ死にとうない」

「諦めて下さい」

千雨ちさめ!」

「無理でございます」


土田御前は無言でにっこりしているが、角が隠れている。

お市には判る。

凄く、怒られる!


「信兄じゃ、待ってたもれ! 市を置いてゆかないでたもれ!」


信長はすまんと謝って去ってゆく。

土田御前は信長も苦手であった。


「お市、ゆっくりお話を聞かせて貰いますよ」

「母上、市は良い子なのじゃ!」

「存じております。さぁ、お部屋に行きましょう」

「許してたもれ!」


誰もお市を助けてくれない。

お市は手を取られて、土田御前の部屋に拉致されていった。


「すまんのじゃ! 許してたもれ! 反省しているのじゃ!」

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