閑話.末森の談議。(清州・今川の戦いの処理)
末森城に信長が入ると、信長はお市を土田御前に預けた。
信長は叱られているお市に両手を合わせ、「すまん」と頭を下げて立ち去った。
お市の助けを呼ぶ声が城内に響いた。
信長は後ろ髪を引かれる思いであったが、お市と同じように母の土田御前が苦手である。
とてもお市を助け出す自信がない。
心の中では何度も謝りながら去っていったのだ。
大広間に近づくと、がやがやと煩かった。
その話題の中心はすべて魯坊丸だ。
「本当でございますか?」
「嘘を言ってどうなる」
「俄かに信じられません」
「だが、多くの者が見ております」
大広間の扉が開いた。
守山の信光、勝幡の信実も着席していた。
信勝もどこか覇気のない顔をして上座に座っていた。
広間の手前には、末森、那古野、守山、勝幡らの家老が座っている。
信長はその真ん中を通り、前に進む。
一段下がった信勝の横に着席をした。
大勝利を収めたと言うのに雰囲気が暗い。
「全員、揃ったようなので始めさせてさせて頂きます」
信光の声で評定が始まった。
◇◇◇
信勝は平針の関所で勝利すると、
敵は瓦解しており、組織的な抵抗も考えられない。
橋の火が消えた後に赤池城と浅田城の奪還戦が残っているが、組織的な抵抗があるとも思えなかった。
順盛が「某一人で大丈夫でございます」と言ったので、信勝も順盛に任せたと言うのが体裁であった。
信勝は精神的に参っていた。
地獄絵図のような虐殺だったのが初陣では仕方ない。
とても戦場で冷静な判断ができるとは思えないので城に帰されたのだ。
城に戻った信勝は自室に籠ってしまった。
「あれが戦なのか?」
勇ましく武将が槍と槍を持って戦う。
そんな武将物語のようなモノを思い描いていた信勝にとって、戦場はとても見るに耐えないものであった。
あのようなものは戦でない。
そう何度も呟いた。
側用人も気を使って、誰も近づけさせないようにしていた。
傷心してそのまま眠り、翌日の朝餉を頂いてやっと落ち着いた。
中庭に出て日課の素振りをする。
「戦はどうなった?」
「お味方の大勝利でございます」
「そうか!」
「丹羽勢に組みした者も次々に降って来ております。後ほど報告すると加藤様から連絡が来ております」
「相判った」
信勝は素振りに戻った。
どうやら信勝は平針の関所の戦いで見事に初陣の指揮を取ったことが評価されているらしい。
上出来だと信勝は安心した。
その日の夕方になると、末森城に多くの武将や兵が戻ってきた。
(加藤)順盛から報告を聞いて、信勝が腰を抜かした。
「熱田にも攻めて来ておったと言うのか?」
「その数は二万以上でございました」
「二万以上だと!?」
「すでに撃退し、降伏させております。問題ございません。信勝様がお望みであった。鳴海、大高、沓掛の奪還も終わっております」
「聞いておらんぞ?」
「某も聞いたばかりでございます」
信長は降伏した今川と調印をして、三城の受け渡しと今川勢の退去が行われた。
わずか二日ですべて終わっていた。
一方、岩崎丹羽勢は次々と信勝に臣従して来ている途中であった。
今川勢が尾張から退去して、織田に臣従した豪族を恐れて、岩崎城の丹羽氏勝も逃げ出したと言う話も飛び込んで来ている。
明日には明らかになると言う。
おそらく、数日中に東尾張を併合できそうだった。
信勝は東尾張を併合して、その力で鳴海ら三城を攻め落とすつもりだったが、その必要がなくなった。
当然、信勝の武名が高まることもなく、信勝の望んだ結果でないのは明らかである。
「兄上(信長)に頭を下げて譲って貰えと言うのか?」
「その必要はございません」
「何故だ?」
「この度の戦は魯坊丸様の勝利であり、信長様の勝利ではございません。三城には魯坊丸様の手の者が入り、そのまま末森に所属することになります」
戦の全貌を聞くと頭が痛くなった。
今川勢は兵を三つに分けて尾張に侵攻していた。
その本隊をわずかな兵で降し、総大将である雪斎も倒した。
そのオマケに三城が付いて来たと言う。
「(加藤)順盛、俺はどうすればよかったのだ?」
「平針の関所を落とした後、周囲の情勢を聞いて、熱田に援軍を送るべきでございました」
「向こうから援軍の要請もないのにか?」
「当然です。熱田勢は今川勢を敵と思っておりません」
「二万以上の大軍を敵と思っていないと申すのか?」
「軽く撃退しております。今川勢は逃げることもできずに降伏したのですぞ。熱田勢が援軍を求めてくる訳もございません」
押し売りのように援軍を送って、その戦果の分け前を霞め取っておくべきだったらしい。
平針に侵攻して来た今川勢を撃退し、岩崎丹羽勢に気が削がれたのが間違いだったと、順盛は指摘する。
「那古野や熱田と連携を密にして、必要に応じて援軍を送っておくべきでありました」
「そうなのか?」
「西加藤の
「誠か?」
「間違いございません」
「二万の軍勢に1,000人を送った程度で変わるモノなのか?」
「魯坊丸様が召喚された
「順盛、人は天を飛べん」
「魯坊丸様はできるようです」
「???」
信勝は順盛の話を信じられない。
順盛を下げて、他の者の話を聞く。
皆、同じようなことを言う。
信勝の気分は優れない。
面会を求める中に
◇◇◇
大広間で信長が入って来て着席すると、信光が評定をはじめる声を上げた。
昨日からずっと不機嫌であった信勝が苦言を言う。
「ずっと留守にしておきながら謝罪もせんのか?」
「確かに! 長らく患っておりました。お許し下さい」
「嘘を申すな!」
「敵を欺くのには、まずは味方からと申します。清州を奪還する為に必要な処置でございました」
「俺に一言くらいはあってもよかったのではないか?」
「誠に申し訳ございませんが、御当主様にはご経験が足りません。この程度のことは察して頂かねば、まだまだ御当主様と言えませんな!」
ははは、信光は一言だけ謝ると白々しい言い訳をして高笑いをする。
信光の離反は武衛様を奪還する為の虚偽であり、信長も知らなかったと説明を付け加えた。
そんな訳がない。
現に信長と信光は連携して動いている。
そんな顔を信勝がすると、信長からは密かに連絡を取って来たと言う。
一方、信勝から連絡がなかったと言う。
まるで信長の方が格上と皆に言っているようだ。
益々、信勝が不満そうな顔をするが信光は気にも掛けない。
「武衛様からお言葉を賜った。5月1日、清洲にて重要なお言葉を発せられる。各城主は護衛を二人までにして、必ず清洲に登城するように伝えよ」
信光が武衛様の命令を伝える。
一方的な命令であったが、那古野の信長、勝幡の信実が異を唱えない。
承知していると言う感じであった。
信勝のみ、蚊帳の外に置かれている。
そして、その場で信長が織田大和守家の信友の養子となり、家督を継ぐと言う。
「どういう意味だ?」
「言った通りでございます」
「何故、兄上(信長)が大和守家を継ぐのだ?」
「武衛様の御命令でございます」
信光が淡々と告げる。
守護である武衛様(
織田弾正忠家の当主と言っても絶対君主ではない。
談合政治の長。
現代で言うならば、国会の議長のようなものだ。
多数決を覆すほどの力はない。
それを覆すには同行してきた家老らを説得して、信光や信実の意見を取り消させねばならない。
それは現実的でなかった。
信勝は余りの悔しさに服の裾を強く握り絞める。
「お待ち下さい。その議はおかしゅうございます」
(津々木)蔵人が信勝を思って声を上げる。
「黙れ! みだりに発言するな!」
「信光様、お許し下さい。ですが、黙りません。この議は陰謀の臭いが致します。大和守家の養子と言うならば、弾正忠家の家督を持たれておられる信勝様が相応しいと思われます」
「武衛様の御命令だ!」
「本当にそうでございますか? 信長様が自らそれを望まれたのではございませんか?」
「信長は3年も前から武衛様に貢物を送り続け、困窮した一年の間も滞らせることはなかった。常日頃の実績で信頼を勝ち取ったのだ。信勝は何をやっておった。家老のお主が知らん訳がなかろう。何故、武衛様の窮状に援助を行わなかったのだ」
「ですが!」
「諄い。黙れ!」
「ですが!」
信光が説明しても蔵人はまだ引こうとしない。
見かねた(加藤)順盛が声を荒げた。
「お役目を果たせずに京より戻ったのは誰だ。まだ、自分が末家老のつもりでいるのか? そなたの領地は熱田衆に接収されており、何の功績もないお主が城主に戻れるなどと思うでない。そなたは家老ですらない。控えよ」
「加藤殿、それは言い過ぎでございましょう」
「佐久間殿もご承知でしょう。笠寺の戦いで我らは何の功績もなく、魯坊丸様に頭を下げて、譲って頂かねばなりません。織田一門に無礼なことを言えば、その領地が戻ってくることもございません。我らはお願いする方でございますぞ」
「それを決めるのは信勝様だ」
「これは異なことをおっしゃる。我らへの手柄を減らして、失態を晒して戻ってきた津々木に譲るつもりはございません。まさか、御当主様がそのようなご無体を言うとは思っておりません」
(加藤)順盛が静かに信勝を恫喝する。
失態を晒して帰ってきた津々木蔵人と
幸い、
それで相殺することができるが、他の二人は何もやっていない。
京にすら辿り着いていない。
(佐久間)盛重も承知しているが、同行者に(佐久間)盛次がいるので同情的であった。
罰せられては困るのだ。
津々木蔵人と佐久間盛次は今川が襲ってきたと聞いて、急いで戻って来たと言い訳をする。
間に合っていれば、その言い訳も成立するのだが、二人が戻ってきた時は終わっていた。
「ならば、今直ぐにでも三河を攻めて、この汚名を晴らさせて頂きたく存じ上げます」
「阿呆、そんなことをすれば、織田が約定を破ったことになるわ!」
人質は熱田に囚われている。
駿河が身代金を払うか、払わないか、それが決着するまで互いに攻めることができない。
おそらく決着すると、同時に停戦も結ばれる。
今川が三河に手を出せなくなるが、織田も手が出せなくなる。
二人の申し出ははじめから議論の余地もない。
「二人の処罰は末森で行う」
言い争いがはじまりそうな末森の家老衆を信光が後にしろと嗜めた。
◇◇◇
末森に集められた用件は2つだ。
1つは、清州会議の開催を告げること。
もう1つは、戦功交渉だ。
「清洲には信長が入る。それで良いか?」
「異議ございません」
「では、儂は那古野に入らせて貰う」
信長が清州に移り、空いた那古野城に信光が移ると言う。
その空いた守山には、信光の弟に当たる
信勝はただ黙っているしかない。
だが、不愉快極まりない。
「では、守山に入る信次は信長の配下とする」
「承知しました」
「信実も信長の配下で良いな?」
「異議ございません」
こうして、那古野と守山の交換が行われ、土岐川(庄内川)を挟んで北と南に統治を分けた。
北は清州に入る信長が治め、南は末森の信勝が治める。
当然、清洲には津島が支配下になり、末森には熱田が支配下に入る。
今まで以上に熱田に強くモノが言えることになる。
「では、信光様。熱田のことも末森の評定で取り扱うのでございますか?」
「そう言うことになる」
「それは嬉しゅうございます。今までは熱田に対して何も言えませんでしたから、大変助かります」
「佐久間、勘違いはするなよ。熱田が那古野の支配下であることは変わらん。儂が末森の筆頭家老として末森に入るから一緒に議論するだけであり、末森家老の支配下に入った訳ではない」
「承知しております。ですが、議論できるだけで十分でございます」
「ならばよい」
(佐久間)盛重の目が怪しく光っていたが、信光は無視することにした。
最大の功労者の話をしていないのだ。
「さて、魯坊丸への褒美はどうするか? 何か意見はあるか?」
「よろしいでしょうか」
「佐久間か、よい申せ」
「此度、戻りました。笠寺、鳴海、大高、沓掛のすべてを魯坊丸様に差し上げるのがよろしいかと思います」
「大学允、何を言っておるのだ?」
(佐久間)盛重の提案に信勝が慌てた。
魯坊丸に褒美を与えない訳にはいかないが、手に入れたすべてを差し出すのはあり得なかった。
「信勝様、よくお考え下さい」
「大学允、どうしたのだ? 魯坊丸に力を与えてどうするつもりだ!」
「すでに今川勢を軽くいなす力を持っております。ここは頭を下げても恩を売っておくべきでございます」
「何故、俺が頭を下げねばならない」
「末森の為でございます」
盛重が深々と頭を下げている。
まるで手の平を返したような態度、盛重の心変わりに信勝は慌てた。
魯坊丸を排除しようと、京に三人を送った時の盛重とは別人のようなことを言っている。
信勝は目を白黒させて盛重を見た。
信光はそんな信勝をさらりと流し、信長を見た。
「信長はどうだ?」
「異議はございません」
信勝が信長を見た。
兄上(信長)も異論がないのか?
魯坊丸が増長するではないか?
信勝は焦るが言い返せない。
佐久間以外はすべて最初から魯坊丸に好意的だ。
反対する者がいなくなった。
きょろきょろと落ち着きなく、家老らを見る信勝は当主の堂々した態度から程遠い。
信長はやれやれと思う。
信長は落ち着いた様子で一呼吸開けてからもう一度口を開いた。
「異議はございませんが、あれが喜ぶでしょうか?」
「喜ばんだろう」
「でしょうな。ですから、ひとまずは笠寺のみでどうでしょうか?」
「それは駄目だ。沓掛は引き受けて貰わねば困る」
信長はピ~ンと来た。
信光は三河との国境に魯坊丸を置くつもりなのだと!
「ならば、東郷、前後も一緒と言うことですか?」
「当然、そうなる」
「承知しました」
「信光叔父上、勝手に決めないで頂きたい」
「信勝は何か意見があるのか?」
「東郷はこちらの手柄です。魯坊丸に与える必要はないでしょう」
「何を言っている。平針の関所の兵は魯坊丸の家臣であり、此度の一番手柄だ。岩崎城ごと東尾張をくれてやる度量を示せ。それでも当主のつもりか!」
先代の信秀の腹心であり、弾正忠家を支えてきた末森の筆頭家老である。
此度も見事な策謀で清州を奪取した。
この信光に否と言及できる家老はいない。
末森だけでなく、他の家老も否と言う訳もない。
味方のいない孤立無援で信勝は対峙しなければいけない。
勝てる訳もない。
「東郷のみです」
「それでよい」
残る二城と笠寺を決めてゆく、清洲周辺の褒美は信長に一任された。
逆に、岩崎丹羽家から奪った土地は東郷を除いて末森で決める。
「して、岩倉の信安はどうしますか?」
この勢いのままで岩倉城を攻め落としたいと思っていた。
「秀貞殿、その気持ちは判るが、こちらも少々銭を使い過ぎた。調略で信安を落としたいと考えておる」
「如何なる方法ですか?」
「武衛様にお頼みして、尾張上守護代の任を解いて頂き、新たに尾張守護又代にして頂く。信長の配下にならぬかと誘ってみようと思う」
「なるほど、断れば、無位無官に落ちる訳ですな!」
「その通りだ」
「某は信安を見限った者を調略いたしましょう」
「早い者勝ちになりそうだな!」
「ははは、与力を増やさせて頂きます」
信秀の時代から信光と調略も争ってきた秀貞には判り易い戦略であった。
織田一門から許可を貰ったので自由に動ける。
もちろん、信光も仕掛けると、この場で断言したのだ。
競争だと煽られたのだから秀貞も受けて立った。
こうして末森の談議が終わり、皆が帰った後に信勝と盛重と蔵人が残った。
「大学允、どういうつもりだ?」
「信勝様、御身が危ないとご自重下され!」
「俺が危ないだと?」
「魯坊丸様は武勇にも優れたお方と知れたのです。信勝様を廃して、魯坊丸様を擁立しようと考えるのは必然ではございませんか?」
「俺を廃するだと?」
「大学允様、それは余りに酷いおっしゃりようです」
「現実を見ろ!」
「しかし!?」
「信勝様は停戦が終わり次第、三河を攻めて武勇を示さねば、お命が危ないとお考えくだされ! 信勝様も今川義元に負けぬと力を示さねば、魯坊丸様に取って替わられますぞ」
「押し込めか!」
「蔵人、その通りだ! そなたも覚悟を決めて御仕えせよ」
意にそぐわない主君を家臣が強引に交代させる。
(佐久間)盛重はその危険性を信勝に教えてくれた。
一先ず、魯坊丸に友好的な態度を取って、他の家臣が反発する隙を見せないようにと忠告された。
信勝は自分が非常に脆い台座の上に君臨していることを知らされたのだ。
「大学允、蔵人、俺を支えてくれ!」
「当然でございます」
「お任せ下さい」
(佐久間)盛重の頬が緩んでいることに信勝は気づかなかった。
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