第102話 魯坊丸の大切な人。

昼から風も収まり、波もかなり静かになって舟が出せるようになっていた。

そう言ってもやはり風も強いし、波も高い。

小舟である小早が何度も大きく上下に揺れた。

俺は舟酔いをする余裕もなく、ハンググライダーが落ちた場所を見つめる。

もっと早く!

気持ちばかりが急っていた。

そして、機体の残骸が見えて来た。

背骨のキールと帆の布が浮いている。


「千代ぉ!」


ざぶんと俺は小早の先端から飛び込んだ。

無理矢理に水練をさせられているのですいすい泳げ…………ない!?

嘘だろう?

波が、波のせいで泳げないぞ?

何度も練習をさせられたのに手が巧く掛けない。

足がまともに動かせない。


機体の残骸が遠ざかる。

違う、俺が流されているのだ。

海中ではこんなに動き難いのか?

波が荒いだけで、こんなに違うのか?

千代女を探さねばならんのに、襲い来る波に抗うだけで精一杯になっていた。

とにかく息継ぎをしないと。

そう思って顔を上げるものの、波が覆い被さって来て息ができない!

ヤバ、苦しくなってきた。

機体の残骸だけでなく、乗ってきた舟も遠ざかってゆく。

拙いぞ。

待て、俺はこっちに行きたいのではない。

波が強かに俺を叩き付けた。

ごぼぉ、マジで息が続かない…………ッ。


「魯兄じゃ、魯兄じゃ、魯兄じゃ!」


気が付くと、お市が俺の名を叫んでいた。

どうやら俺はまだ生きていたらしい。

誰かが舟に引き上げて寝かせてくれたのだろうか?

糞ぉ、情けない。

千代女を助ける前に、俺が溺れて死に掛けたのか。


「お市…………」

「魯兄じゃ、何をやっておるのじゃ」

「千代を助けようと…………」

「それで魯兄じゃが溺れて、どうするのじゃ!?」


ごもっともな意見だ。

はっとして、跳ね起きた。

千代女はどうなった!?

が、逸る意識に体が追い付かず、揺れる舟から落ちそうになる。


「危ないのじゃ」

「魯坊丸様、落ち着いて下さい。千代女ならば救出致しました」

「千代は無事か!?」


加藤は首を、横に振った。

まさか、死んだ…………のか?

加藤の視線の先にには、横になったままで動かない千代女が寝かされていた。

それを見た瞬間に、俺は足元から力が抜けて、その場にへたってしまう。

嘘だ!

千代、俺を置いてゆくな。


「助け出しましたが、意識が戻りません」

「……………ん!?  死んで、いない…………のか?」

「死んだように眠っております」

「紛らわしいことを言うな。(ボケぇ)」


万が一、手を離しても落ちることがないようにと、ハンググライダーに乗る時は命綱が腰に巻かれている。

しかしそのままでは、着水するとハンググライダーの帆が邪魔で息ができなくなる。

綱をほどいている間に水死しそうになった馬鹿がいた。

あれはあれで、有意義な経験となった。

だから、一箇所を切るとすべてが解けるように綱を工夫し、着水する前に命綱を小刀で切って海に飛び込む。

搭乗者には猪の腸を洗って風船のように膨らませた救命着を付ける。

あとは助けが来るのを待ってもいいし、海岸まで泳いでもいい。

それが着水の手順だ。


しかし、今回、千代女はバランスを崩し、錐揉み状態で落ちた。

そのまま命綱を切る余裕もなく、海面にぶつかり海中に沈んだ。

機体は一瞬でバラバラになった。

だが、主軸キールは竹で出来ているのでゆっくりと浮いていった。

それが幸いした。

千代女の体を一緒に引き上げてくれたのだ。


「体を強く打った為か、意識が戻りません」


千代女の頬が少し赤くなっているのを見ると、バチンバチンと頬をひっぱたいたようだ。

おぃ、こらぁ!

千代女になんてことするのだ。


気を失ったことで、大して水を飲まずにすみ、溺れなかったようだ。

少し海水を吐き出させると、微かだがすぐに呼吸をするようになったらしい。

だが、意識は戻らない。

怪我がなかったのは奇跡的なことだが。


「舟を戻せ」


舟の上には着替えすらない。

体温が下がると別の意味で危なくなる。

熱田の湊にある大喜の屋敷へ運ばれた。

本家の年寄の大喜五郎丸の屋敷ではなく、御爺の嘉平の屋敷の方だ。

濡れた体を拭き、焼石で温かくした布団に寝かした。


「早く、目を覚ませッ」


熱田明神の生まれ代わりとか言われているが、俺はタダの人だ。

加持祈祷で直すことはできない。

脳内出血でもしていたら手の施しようもない。

俺は千代女の手を握ったままで祈るような気持ちで、ただ一心に願った。

助かってくれ。


「嘉平爺が甘酒を作ってくれた。魯兄じゃも飲んだ方がよいのじゃ」

「…………お市が代わりに飲んでくれ」

「わらわはもう飲んだのじゃ。魯兄じゃも体が冷えておる。そんな冷たい手で握っても、千代姉じゃは戻って来んのじゃ」

「…………そうだな。では、一杯頂こう」


 ◇◇◇


笠寺の戦いは、夕刻まで続いたそうだ。

敵兵の多くが降伏した。

武装解除させて、一箇所に集めている。


思惑通り、水野信元が寝返った。

水野家が寝返ると、他の三河衆も寝返った。

笠寺城や星崎城などの城や寺などに籠城している者も居れば、鳴海潟の手前の村上社に籠って渡河を待った者もいた。

追撃をした全朔ぜんさくの兵は、寝返り組を含めると5,000人に膨れ上がった。


戸部城に籠った山口やまぐち-教継のりつぐ戸部とべ-政直まさなおも寝返りたいと願ったが、元寺部城主の子、熊丸が許さず、城の中で内紛が起きて逃げ出した。

そして、二人は村上社に籠っていた今川に合流したのだ。


逃げ出した教継らと違い、ここを死に場所と忠義を示す為に率先して戦って討死した者も多い。

逃げ出したが、逃げ場を失った敵兵が再度集まってゆき、村上社には5,000人を越える兵が戻った。

延隆のぶたかはそれらをしばらく放置して、星崎城などを襲った。


兄上(信長)も清州への登城を後回しにして、お市を助けようと駆けつけた。

俺より少し後だったらしい。

海を渡ろうにも船が一隻も残っておらず、「魯坊丸の馬鹿野郎!」と罵声を上げたらしい。

そのまま舟が戻ってくるのを待つような兄上(信長)ではない。

山崎から平針街道を進み、天白川の上流の島田城を迂回し、常滑街道を通って、鳴海城付近に移動した。


鳴海城には、舟で渡河して逃げた教継の息子である山口やまぐち-教吉のりよしが籠城していた。

命カラガラに逃げて来た兵も集まって、3,000人に達していた。

だが、1,500人程度しかいない信長の兵に恐れを為して、門を閉ざして押し籠った。

討って出ようと、城を守っていた今川の武将と口論になったようだが、逃げて来た兵達が怯えながら「天誅だ」とか、「仏敵だ」とかつぶやきながら虐殺して黙らせた。

余程、白鷺が恐ろしいらしい。


村上社に籠っていた今川方には時間がなかった。

全身に大火傷を負った雪斎の命が、風前の灯になっていたのだ。

ちゃんとした処置を行い、医者に見せたい。

今、雪斎を失う訳にいかない。

日が沈み、再び干潮が近づいた頃、村上社に籠っていた朝比奈あさひな-信置のぶおきが舟で渡り、信長に降伏を告げた。


俺は降伏すれば、命を助け、国元に帰すと約束した。

そうだったっけ?

延隆のぶたかの兵がそう騒いでいるだけだよね。

俺が言った訳ではない。

どうやら俺が約束したことになっているらしい。

渋い顔で兄上(信長)は承諾した。


「待て、待て。帰すとはいったが、無条件とは言っておらん」


兄上(信長)に呼び出された延隆のぶたかがそう言った。

まず、織田を裏切った山口親子と戸部政直の首だ。

それが無いと、熊丸の率いている笠寺衆が納得しない。


「此度、命を賭けた者への褒美が必要でございます」

「ならば、西三河を寄越せ」

「それは流石に我々が決める範疇を越えております。尾張からの撤退。鳴海、大高、沓掛の三城ではいけませんか?」

「信長様、それでよろしいではないですか? 三河が素直に城を空け渡すのか判りません。空手形を頂くより、確実に三城を貰った方がよろしいでしょう」

「であるか」

「で、身代金はいくら貰える。一万貫文か?」


延隆のぶたかの問いに、信置のぶおきらは慌てたようだ。

捕虜を売れば、銭になる訳だ。

帆船を造るには銭が掛かる。

最近、銭が足りなくて困っている延隆のぶたかならではの提案だった。


「失礼した。そなたらの値段が雑兵と同じ、一人一貫文では恥をかかせますな。武将の価値は高い。一万五千貫文に致しましょう」

「お待ち下さい。そのような…………」

「あいや失礼。五千貫文足らずとは、名門の今川家家臣の価値に合いませんな。合わせて二万貫文に致しましょう」

「お待ち下さい。一万五千貫文で結構でございます。しかし、持ち合わせがなく、今すぐに払うことなどできません」

「大丈夫です。後払いで結構です。今、熱田には右近衛大将、久我こが-晴通はるみち様がご逗留でございます。立会人になって頂ければ、名門の今川家が約定を反故にすることもございません」


京の災難から避難して来た晴通様をここで使うとか、延隆のぶたかも抜け目がない。

翌日には三人の処刑と三城の引き渡しが行われて、雪斎と武将と兵が解放された。

雪斎の命が掛かっているのでスピード処理だ。


朝比奈あさひな-信置のぶおき松井まつい-宗信むねのぶは人質、兼、調印の為に熱田へ移された。

仮の約定は、晴通様を立会人として結ばれて駿河に送られた。

それを義元が認め、正式な使者が来るまで逗留することになる。

もし、約定を反故にすれば、二人の首が飛ぶ。

そうなれば今川は、銭を惜しんで二人の家臣を見捨てたと、汚名を被ることになる。


寝返った刈谷の水野みずの-信元のぶもとの帰参は許されたが、沓掛城の近藤こんどう-景春かげはるの帰城は認められなかった。

教継らは首を刎ねられたが、景春の首は繋がったのだから、「それで感謝しろ」と言うことだ。


 ◇◇◇


俺はすべてを放棄して、千代女の横から離れずにいた。

翌々日(20日)、お市は迎えに来た兄上 (信長)に連れられて末森に戻された。

皆、事後処理で大変らしい。

手伝うように言われたが、俺は首を横に振った。

覇気のない俺に呆れたのか?

または、他の何かを察したのか、とりあえず、引き上げてくれた。

その翌日には、お市が城を抜け出して戻って来た。


「千代姉じゃは目を覚ましたのかや?」

「まだだ」

「信兄じゃの言伝じゃ。明日は那古野に登城せよと言っておった」

「那古野に寄ってきたのか?」


お市が頷く。

だが、俺は千代女の側を離れる気はない。


「魯兄じゃがここに籠っておると、皆が心配しておるのじゃ」

「何もする気がおきん。用事があるならこちらに来てくれと言っておいてくれ」

「判ったのじゃ、そう言っておく」


俺はお市が入って来てから一度も振り返っていない。

ずっと千代女の顔を見続けていた。

お市も何かを悟ったように立ち上がり、部屋から出て行こうとしたとき、千代女の指がぴくりと動いた。


「うぅ…………、若様、いけません。お仕事をして下さい」


口がもぞもどと動き、擦れた声で呟いたのだ。


「千代! 聞こえるか!?」

「千代姉じゃ! 起きてたもれ!」

「さぁ、騒がしいです」


ゆっくりと瞼が開いたが、まだ目の焦点が合っていない。

何かを探すように首を揺らす。

俺は千代女の手をぎゅっと強く握り絞める。

目の焦点があってきた。


「よかった。よかった。目を覚ましたッ」


余りの嬉しさに涙がぽたりぽたりと落ちてゆく。

よかったぁ。

こんな嬉しいことはない。


「魯兄じゃが泣いておるのじゃ」

「お市も泣いておろう」

「魯兄じゃが泣くからじゃ」

「…………お市様、ご無事でよかった」

「千代姉じゃのお蔭じゃ、ありがとうなのじゃ。助かったのじゃ」


千代女がにっこりと笑う。

一段と握る手に力を入れる。


「千代が倒れると迷惑だ。今後、一切倒れることを禁じる」

「無茶を言っているのじゃ」

「千代が倒れると、俺は安心してごろごろできん」

「ふふ。それは大変でございます」

「そうだ、大変だ。城に引き籠るには千代が居ないと駄目なのだ」

「引き籠らないで頂きたいのですが?」

「それは無理だ。俺は悠々自適で何もせずに、のんびりと引き籠りたいからがんばっているのだ。それができないと言うならば、何もする気が起こらん」

「情けないことを言わないで下さい。我が主様」

「まったくじゃ。魯兄じゃは凄いのか、情けないのか、よく判らないのじゃ」


俺が凄い訳がない。

俺の知らない人の為に自己犠牲を払うつもりはまったくない。

俺の生活を向上させる為にがんばっているだけであり、尾張を守ろうと思う兄上信長のような使命感や、将軍家を復興させようと自ら命を賭ける公方様義藤(後の剣豪将軍義輝)のような願望もない。

のんびり暮らしたいだけだ。

周りに笑顔が溢れていないと落ち着かないから、多少はがんばっている。

俺は俺がやりたいことしかやりたくない。


「この戦国の世にては、普通にそれができないと思います」

「知るか!」

「皆、殺し合っているのじゃ」

「周りのことなんて関係ない。俺がそうしたいから、そうするだけだ」

「無茶苦茶なのじゃ」

「ふふふ、ですね」

「千代は一生俺を世話しろ。いいか、俺より長生きをするのだ」


千代女がちょっと困った顔をする。

護衛が俺より長生きをしろと言われて困っている。

そんなことどうでもいい。


「私の方が年上ですので無理と存じ上げます」

「知らん。俺より先に死ぬな。俺を一生ごろごろさせろ」

「ごろごろはないのじゃ。『千代姉じゃが好きじゃ。俺より先に死なないでくれ』と言った方が格好いいのじゃ」

「まだ、そんな年じゃないんだよ」


お市に図星を言われた。

俺の顔が真っ赤に染めった。

そう、自分でも何となく判ったのでふて寝をする。

言えるかそんな恥ずかしい言葉。

一生、言う気はない。


「魯兄じゃは格好悪いのじゃ」

「うるさいな」

「千代姉じゃからも何か言うのじゃ」

「お気持ち、ありがたく存じ上げます」

「そうか、許してやる。俺は疲れた。もうごろごろする」


そう言って体を横に向けると、緊張の糸がほつれて急に眠気が襲ってきた。

ヤバぃ、寝てしまいそうだ。

強烈な睡魔に襲われて、抵抗するが、抗うことができなかった。

花畑でごろごろとしている夢を見た。

いい香りだ。


気が付くと、天井が見える。

横に寝息を立てる千代女がいる。

何だ?

この状況は?

同衾。

わぁ~~~~、めちゃ恥ずかしかった。

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