第99話 清洲騒動(10) 赤塚の戦いの残照とお市の失敗。

蛇池での戦いは終わった。

柴田勝家が勝鬨を上げている。

敵の仮総大将である元岩崎城主の先々代当主である丹羽 氏清にわ-うじきよも敗走した。

敵は総崩れである。

後衛にいた本当の今川の総大将は撤退し、見捨てられた兵が逃げ出して、持ち堪えることができなかったのだ。


だが、時間が掛かり過ぎた。

敵が陣形をゆっくりと組んだ為に満潮の時間を越えていた。

今から行っても間に合わないかもしれない。

追撃戦を優先するか、熱田に急ぐか、どちらにするか悩んでいると熱田から急報が飛んできた。


「何故、お市が笠寺に突撃しておるのだ?」

「井戸田の関所に山口 教継やまぐち-のりつぐら率いる鳴海勢が猛攻を掛け、前に出過ぎた教継が投石を頭に受けて負傷しました」

「話が見えん」

「兜が飛んだ教継に戸部 政直とべ-まさなおが救援に駆けつけます。そこで熊丸様が『父上の仇』と叫んだのでございます」

「熊丸と言えば、6歳の山口重俊の遺児だったかしら?」


帰蝶義姉上がそう呟いた。

話が繋がった。

熊丸の父である山口重俊は松巨島の寺部城の城主だ。

兄上 (信長)が戦った『赤塚の戦い』の前哨戦として、織田家を裏切った教継らに戸部城の戸部政直、星崎城ほしざきじょうの花井右衛門兵衛が付き従った。

彼らは織田を見限ったのだ。

しかし、山口重俊は織田方に残ってくれた。

そればかりか、戸部城を逆襲した。

残念ながら返り討ちにあって戦死したが、織田の為に尽くしてくれた忠義者ということになる。

山口重俊の妻と子、そして、その家臣団は織田家を頼って熱田に逃げてきた。

家臣である成田弥六、成田助四郎は兄上 (信長)と共に参戦して『赤塚の戦い』に参加したが、結局はこちらも引き分けで仇討ちに失敗した。

熊丸を中心とした家臣団は悔しい思いを今も持っていたのだ。

この織田の窮地に笠寺衆が参加し、井戸田の関所の右岸を守ってくれた。

そして、目の前に仇が倒れている。


「熊丸様の家臣である成田弥六、成田助四郎が絡繰り箱を使いました。関所の空に3,000本の矢が舞い、敵を総崩れに致しました。しかし、敵の教継と政直に当たらなかったそうです」

「総崩れと言うことは逃げたのだな?」

「はい、敵の教継と政直が撤退。熊丸様がここで逃がしては武家の恥と言い、笠寺衆は舟着き場の門を開いて追撃を致しました」

「一緒にお市も追撃に加わったのか?」

「はい、お市様は魯坊丸ろぼうまる様より幼い熊丸様を見捨てることはできないとおっしゃりまして、入道全朔にゅうどう-ぜんさく様と共に熱田勢を率いて、熊丸様を連れ戻す為に出陣されました」

「確かに織田の恩人を見捨てるのは拙いでしょう」

「それは判りますが、お市が出る必要はありません」

「そうね」


何がしたかった?

二重遭難する救援隊だ。

丁度到着した火薬筒を使って対岸の今川方を混乱させたことで笠寺衆は被害も少なく松巨島に上陸できたそうだが、そのまま白毫寺びゃくごうじ方面に逃げる敵を追ってしまったと言う。


「義姉上 (帰蝶)、俺はすぐに熱田に戻ります」

「承知しました。私は殿 (信長)に連絡を入れながら那古野に戻ります」


そう言った俺だが、すでに海の水は上がって来ているハズだ。

熱田まで急いでも半刻 (1時間)は掛かる。

熱田の湊から舟を出して間に合うのか?

焦る気持ちを抑えながら、俺は熱田に向けて馬を走らせた。


 ◇◇◇


「父上の仇を取るのだ」


背負われて叫ぶ熊丸の声は教継に届かない。

五町 (545m)の海を渡り、さらに上陸して五町 (545m)まで撤退していた岡部元信らが本陣近くで反転した。

岡部元信らは (山口)教継らの兵が敗走しないように横に広がっていたので、飛んで来た竹槍の爆発の影響を余り受けなかった。

もちろん、びっくりしたし驚きもした。

だが、全軍潰走とはならなかった。


教継が率いていた雑兵らは本気で逃げているので収拾がつかない。

元信は教継らを先に行かせて、反転の好機を伺っていた。

元信には手元の兵500人もおり、本陣の手前で反転した瞬間、熊丸の笠寺衆300人の前に壁が現れた。


白毫寺近くに陣を構える雪斎和尚の前で醜態は晒せない。

ワザと逃げた訳ではないのだが、敵の新兵器に驚いて前衛の兵が本気で逃げたのが功を奏した。

前衛が崩れるのを見て、元信らは兵を分散させながら自然に後退させることができた。


散った葛山長嘉、三浦義就、飯尾乗連、浅井政敏らも、元信を見て反転して包囲殲滅戦に移行する。

先陣3,000人の内、一割の300人ほどが本気で逃げてしまったが、熊丸の笠寺衆300人を包囲するには十分な兵力であった。


「あの奇妙な武器も味方がいる所では使えまい」


元信がそう思っていると、包囲しようとした今川勢と熊丸の笠寺衆の間にお市が割り込んできた。


「黒鍬衆、放つのじゃ!」


鉄球と火薬玉が包囲しようとしていた葛山長嘉、三浦義就の部隊の前に10個の火薬玉が爆炎を上げた。

物理的に人が吹き飛ぶ。

葛山長嘉、三浦義就の部隊が一瞬で瓦解した。

なんと、元信も驚いた。

まだ、あのような武器があったのか?


「掛かれ!」


お市の横にいた全朔が熱田衆500人と一緒に横槍を入れる。

葛山長嘉、三浦義就の兵600人が逃げ惑った。

勝敗は一瞬で決まった。

お市は熊丸の元に行き、撤退を指示する。


「今すぐに戻るのじゃ」

「まだ、父の仇が討てておりません」

「ここで死んでは意味がない、弁えるのじゃ」

「ですが…………」

「申し訳ございません」


家臣団がお市に頭を下げる。

その間も教継らの旗がドンドンと小さくなってゆく。

熊丸は悔しそうに見ている。


「いつか討てばよいのじゃ」

「いつかとは?」

「周りを見よ。今日、生き残ることじゃ」


熊丸たちは逃げる教継らに気を取られ、周りが見えなくなっていた。

周囲を見渡すと周りに今川の旗が棚引いている。

熊丸の笠寺衆は半包囲されようとしていたのだ。


「全爺ががんばっている間に撤退するのじゃ」

「はい」

「撤退!」


だが、すでに遅かった。

今川本隊の朝比奈信置が4,000人の兵を連れて遮ってきた。

信置は寺部城を通過して中根南城の夜寒を襲うように見せて、そこから進路を西にとってやって来ていたのだ。

(朝比奈)信置が叫ぶ。


「隊を二つに分ける。俺は退路を断つ、そなたらは渡河して井戸田の関所を落とせ」

「畏まりました」


海岸沿いから(朝比奈)信置が割り込んで退路を断ってしまった。

大軍の一部が井戸田に向かっている。

4,000人を払い退ける力をお市は持っていない。


 ◇◇◇


雪斎和尚の策が成功したかに見えたが、「遅すぎる」と首を横に振った。

熊丸の笠寺衆がやっと出て来た。

これから押し返して、敵と一緒に渡河するのは時間的に無理である。

使者を送り、手順を変える。

(朝比奈)信置に手薄な井戸田の関所を直接に襲うように命令を変更した。


(朝比奈)信置の4,000人の内、1,000人を足止めに使う。

残る3,000人で井戸田の関所を襲う。

関所が陥落すると同時に雪斎の本隊2,000人が渡河を行って、最低数の5,000人を確保する。

包囲した敵は降伏させて交渉材料に使う。


「できれば、さらに2,000人は渡河させて、最低7,000人にしたいものだな」


どんな強力な武器であろうと、1,000人弱の兵が3,000人の兵を食い破るのは難しい。

完全に包囲すれば、何もできなくなる。

後で中根南城に向けた残りの兵もこちらに向わせれば、さらに良い。

雪斎和尚は一人で頷く。


問題はあの爆音であった。

(朝比奈)信置の本隊3,000人を井戸田の関所に向かわせるが、関所にあの武器が残っているならば、おそらく落とせない。

そして、残されていると思われた。


「負けたな」


雪斎和尚は一人で呟き、一人で納得した。

包囲した敵を利用して、どこまで譲歩させられるか?

思考はすでにそちらに移っていた。

中根南城、あるいは、島田城と交換できれば、それに越したことはないが、おそらく無理であろう。

ならば、知多半島の先端にある羽豆崎はずざき城を要求するか?

それで三河から伊勢までの海路を今川が占有できる。

鳴海・大高・岩崎と知多半島の南部を交換できれば最上の結果と言った所か。

その後は和議を結び、同盟を結ぶ。


「甲斐と切って、織田、今川、北条の東海三国同盟に切り替えた方がよさそうだ」


織田は手強い。

おそらく、甲斐の武田より、相模の北条よりも強い。

しばらくは争わない方が良さそうだ。


交易で儲けている織田は海路を確保できれば文句は言うまい。

交渉の材料は交易の自由だな!

今後の目標はこちらが南伊勢を取り、北伊勢を織田に譲る。

それで大和経由で京への道が確保でき、それ以降の争いを避けることもできる。

甲斐の武田晴信も欲深い。

今川は甲斐に向かうことになる。

いずれはだ。

そのときの為に織田を味方にする方が得策だ。


「そのまま降伏させる。なるべく争うな。包囲は距離を開けろ。浅井政敏に言って、後背の海を取らせろ。熱田の舟が来るぞ。海岸に近づけさせるな」


敵の葛山長嘉、三浦義就を襲っていた部隊も合流したようだ。


「密集するな、盾隊と弓隊を前に置け、包囲は三重に引いて広く浅く配置せよ。それで向こうの新兵器を無効にできる」


井戸田へ戻る道には(朝比奈)信置の本隊1,000人と別動で井戸田を攻める3,000人がいる。

雪斎はその数を排除できるほどの新兵器の数を持っていないと読んだ。


一撃して撤退する。

悪くない策であったが相手が悪かった。

ゆっくりと半包囲から完全包囲に変えて行かれ、お市は逃げ場を失ってゆく。


「魯兄じゃのように巧くいかんのぉ、失敗したのじゃ」


天を見上げて、お市は嘆いていた。

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