第98話 清洲騒動(9) 千代女、静かに怒る。

自称『飛ノ加藤』こと、三雲みくも 三郎左衛門さぶろうさえもん入道全朔にゅうどう-ぜんさくに取り立てられ、加藤の名を頂き、一門並の客将と魯坊丸ろぼうまるの警護を任されていた。


飛ノ加藤は戦場にスルスルと入ってゆくと入道全朔の側に寄った。

入道全朔は近寄る敵をなぎ切りにしながら、周りの兵を鼓舞していた。


「敵は雑兵だ。しっかりと突け! 力負けするな!」


まるで実践訓練でもしている気軽さであった。

全朔が集めた忍び衆が各所のフォローしながら有利で戦いを進めている。

今、戦っている農兵は精鋭から程遠い。

明らかに訓練をしている。


敵の今川兵は痩せ細って槍も禄に振れていない。

どう見ても鳴海の寄せ集めだ。

経験の乏しい熱田の兵でも何とかなっていたのだ。


「ご隠居様、そろそろお引き下さい」

「三郎左衛門か、いつ帰って来た」

「今し方、でございます」

「魯坊丸様は?」

「那古野の少し上に群がって来た今川を払ってから戻ることになっております」

「そうか!」


全朔が刀を大きく上に円を描くように振り回した。

退却の合図だ!

各所に散っていた忍び衆が『撤収する。門まで下がれ!』とあちらこちらで声を上げた。

熱田勢に呼応するように今川勢も後に下がる。

阿吽あうんの呼吸とはこういうことだろう。


門の前で巨大な猪に乗っているお市を見つけて馬を降りて跪いた。


「お市様、無事の御帰還。この全朔。喜びに堪えません」

「全爺、今戻った。また、舟に乗せてくれ!」

「今年の秋に新造艦の試験を行います。必ず、お呼びさせて頂きます」

「楽しみにしておるぞ!」


全朔は2年前に魯坊丸が手遊びとして造らせた『ボトルシップ』 (瓶に入っていません)を見て、隠居を決めた変わり者だ。

佐治氏を取り込む為に魯坊丸に弁才船 (350石船)の設計をさせた張本人だ。

はじめてみた『ボトルシップ』の帆船を造るのを夢見て、西加藤家の財力をすべてそちらに注いでいる。

この秋に新造艦として、弁才船をさらに大きくした『千石船』と竜骨りゅうこつ造りの350石の『小型帆船』が完成する予定であった。


魯坊丸は「途中で沈んでも知らないぞ」と繰り返す。


設計させられた本人はかなり無責任な発言を繰り返している。

本物に瓜二つの『ボトルシップ』は造れても、本物の帆船が造れる訳ではないのだ。

魯坊丸が責任を持てるのは船の強度計算までだ。

鉄をふんだんに使用して補強した船は航海の途中で二つに折れる心配はない。

特に、弁才船の弱点である水船みずぶね(高波に遭うと水が上から入って転覆する)にならないように樽型の構造にしてある。

だがしかし、船を造るのは佐治氏であって、魯坊丸ははじめから『匙』を投げていた。

そんなことはお構いなしに全朔はあの美しい帆船にいつか乗って、魯坊丸と一緒に七つの海を巡ることを夢見ていた。

全朔こと、加藤かとう 隼人はやと延隆のぶたかは魯坊丸の狂信者であった。


「疲れたであろう。皆、体を休めよ」


全朔ははじめての戦闘で疲れたであろう兵に休息するように言った。

千代女が怖い顔で睨んでいた。


「入道全朔様、討って出ないように通達してあったと心得ますが、お忘れになったのでございますか?」

「忘れておらん。だが、本番の前に一度は経験させておいた方が良いと考えた」

「あれが囮ということは?」

「ははは、承知している。問題ない」


全朔は悪びれる様子もなく笑って言った。

千代女は重い溜息を付く。


駄目だ、こりゃ!


何を言っても聞こうとしない。

これは今にはじまったことではない。

110石船の設計図を佐治氏から借りて来て、それを元により大きな船の設計図を書けと頼み込んだときもそうだった。

初期投資で大喜氏と加藤氏には大きな借りがあったので断れなかったのだ。


「しかし、忌々しい。何故、秋に攻めるのを待てないのだ」

「それは今川の事情でございましょう」

「秋ならば、海から大砲を撃って、横っ腹に度肝を抜いてやろうと完成を急いでおったのに、すべてが無駄になったではないか?」


千代女がもう一度重たい溜息を付いた。

そもそも秋までに大砲が完成する目処は立っていない。

鉄砲を大きくしたような物ならできそうだが、後ろで開ける開閉式や命中率を考えると、色々と試行錯誤することが多い。

そもそも魯坊丸は大砲の製作より、花火の完成を急いでいた。

夏に花火を見せて、皆と一緒に楽しもうと意気込んでいる。


しかし、信長や全朔は花火より大砲を急げと言う。

が、魯坊丸は花火の方にご熱心だ。

完成するかどうか判らない大砲を載せるつもりで小型帆船の完成を急ぐのは、まったく意味がないと思う千代女であった。


そもそも魯坊丸は生活改善、食改善、娯楽改善を先にする。

砦などの設計は楽しそうに描く。

だが、戦は好きではない。

できれば、城に籠って楽をしたいと平気で公言する。

花火職人を急かしても、大砲製作の鍛冶職人を急かすことはない。

もっとも、急かさずとも花火職人に負けるまいとがんばっていた。


「お市様、こちらは入道全朔様がいらっしゃるので大丈夫そうです。我々は中根南城に向かいましょう」

「わらわ達が居なくなれば、また討って出るのではないかや?」

「そうなるかもしれませんが諦めましょう」

「突破されては困るではないか?」

「大丈夫でございます。元締めから『空城の計』を使えるように準備を進めていると連絡が入りました。最悪、火を放って今川を止める算段が付きました」


井戸田の関所もコの字状の構造になっている。

そのコの字の中にお茶屋が一軒あり、拙い団子を売っている。

お市が指摘したお茶屋だ。


関所を通ると関所町が広がり、両側に粗末な木造りの店が並んでいる。

飯屋、献残屋けんざんや、馬貸屋、米屋、味噌屋、呉服屋、金物屋、磨ぎ屋、竹細工屋、焼物屋などである。

お市が文句を言っていたように甘味がない。

すべて六畳半程度の小さな小屋ばかりだ。

裏には高い石垣で覆われており、反対側に抜ける門まで城のように石垣で覆われている構造になっていた。


しかし、別に関所町を守っている訳ではない。

ここに油を投げ込んで火を掛けると『空城の計』が完成する。

魯坊丸は井戸田の岬を空城に見立てていたのだ。

最悪、全朔らが突破されたら敵をここで一網打尽にする予定であり、その準備が整ったと報告があった。


「火計は一度しか使えない奇襲ですが、今日、明日で対応できるものではございません。井戸田は問題ございません」

「であるか、よく判ったのじゃ」

「では、中根南城へ急ぎましょう」

「わらわはここに残るぞ!」

「お市様、ここに残ってどうされるのですか?」

「むしろ、わらわが聞きたい。わらわは中根南城に戻って何をするのじゃ。千代姉じゃが戻れば、することはない。里と一緒に戦が終わるのを待つことになってしまうのじゃ」

「当然でございます。お市様は姫様でございます」

「じゃが、ここにおればわらわは全爺を見張り、皆を鼓舞することができる」


そう言うとお市は牡丹の上に立ち上がった。


「勇敢な熱田の兵よ。今川はすぐに戻ってくるのじゃ。門の中に入って石と矢を準備せよ。魯兄じゃはすぐに戻ってくる。それまで門を閉めて、只管、待つのじゃ!」


うおおおぉぉぉぉっと熱田の兵がお市の声に呼応する。


「お市様、私の命に従って下さい」

「千代姉じゃこそ、魯兄じゃの命に従って中根南城に急ぐのじゃ」

「お市様!」

「わらわはここを動かんぞ」


お市と千代女が睨み合いを続ける。

時間は刻一刻こくいっこくと過ぎてゆく。

中根南城の中根大門が突破されているとは思えない。

しかし、万が一を考えると戻らなければならない。

加藤がそっと千代女の肩に手を置いた。


「こちらは俺に任せろ」

「仕方ありません。加藤、よろしくお願いします」


根気負けだ。

ふんす、お市は胸を張って勝利を宣言している。

千代女は「これで勝ったと思うなよ」とは言わなかったが、「加藤、言うことを聞かなければ手荒に扱っても構いません。私が責任を取ります」と言い放った。


「千代姉じゃ、それは卑怯なのじゃ」

「加藤の言うことを聞かなければ、お尻ペンペンを100回です」

「100回じゃと!」


千代女のお尻ペンペンは容赦がない。

お市がおねしょ・・・・をしたときでも10回だ。

その10回でしばらく座ることもできないほどに尻が腫れた。


「100回もしたら尻が裂けてしまうわ」

「最初から裂けているので大丈夫です」

「そんなことあるか!」

「ふっ、加藤の言い付けをお守り下さい。それでは行って参ります」


怒ることがない千代女は怒ると怖いのだ。

千代女の殺気がお市の中を通り過ぎ、ぞわぞわと鳥肌が立った。


「加藤、千代姉じゃは冗談を言ったのじゃな?」

「今回は本気ですな」

「わらわはいつも良い子なのじゃ。そうじゃな!」

「良い子にして下さい」

「いつも良い子なのじゃ」

「そうですか? 布団を隠そうとしなければ、お尻ペンペンはなかったと存じ上げます」

「そうなのか?」


お市は少し反省する。

千代女を怒らせたのは失敗だった。

後で謝ろうと心に決めた。


 ◇◇◇


ぐさっと逃げてきた雑兵に向けて、今川の兵が槍を突き出した。

何人かがばたりと倒れる。

赤い血が海の水に広がり、ざっと血の気が引いてゆく。


「元信様、これはどういうことでしょうか?」


海岸で待ち受けていた岡部 元信おかべ-もとのぶらは松巨島に再上陸することを許さなかった。

山口 教継やまぐち -のりつぐが怒りを露わにして抗議する。


「雪斎様より申し付かったであろう。敵を釣り出すまで戻ることはならん」

「一度、休憩すれば、すぐに戻ります」

「渡河できる時間は限られておるのだ。本隊が到着するまで、幾ばくの時間もない。それすら判らんのか?」


教継もそれは十分に承知している。

しかし、怪我人も多くなり、士気も落ちた。

立て直したいと考えた。

だが、それすら許すつもりはないらしい。


「生きたい者はすぐに戻れ、あの門をくぐらなければ、そなたらの命はないと思え。それともここで刀の錆になりたいか!」


がちゃ、今川の兵の槍が雑兵の方へ向けられた。


「元信様、それはヤリ過ぎでございます」

「黙れ、手向かうならば、教継でも容赦するなとお達しである」


元信が刀を抜いて、教継の方へ向けた。

どうやら雑兵を追い立てる役は教継ら620人ではなかったようだ。

雑兵を含めて、鳴海・笠寺衆も囮だったのだ。

教継は雪斎の腹黒さに怒りを覚えた。


「皆の者、行くぞ!」


教継が体を翻すと、戸部政直らが付き従った。

ここで死ぬのは馬鹿らしい。

何としても熱田勢を釣り出して生き残るしかない。


「付いて来ぬ者はすべて殺せ! 生きたい奴は前に進め、他に生きる道はない」


ここまでするか、雪斎和尚!?

生死を賭けねば、必死になれない。

理屈は判っても、やられた方は堪らない。

もう二度と雪斎和尚と楽しく酒を交わせる気がしなかった。

だが、その前に生き残らなければならない。


「後生でございます。この子に休息をお願いします」


顔色の悪い我が子に母親が横にいる武将に縋り付いていた。

この状況を見て判らぬのか?

そう思った教継であったが、その子供の顔色の悪さからこれ以上の無理は勝敗に関係なく、その子の命に係わると思ったのだろう。


「後生です。御慈悲をお願いします」

「慈悲をくれてやろう」

「ありがとうございます?」


教継は刀を抜いて、その子の首を飛ばした。

これで苦しまずに死ねた。

いやぁ~~~!

母親が我が子の首を拾って泣き叫ぶ。

こう動揺しては戦えまい。

首元から心臓に向けてぐさりと刀を降ろす。

まったく、容赦はなくなった。


「これで足手纏いはいなくなった。皆、心して戦え、行くぞ!」


教継の目が狂気に染まっていた。

家臣団もその狂気にぞわぞわと体を震わせる。

もう後がない。

主人の覚悟に家臣団の皆も覚悟を決めた。


「すわ掛かれ!」


井戸田の戦いの第二ラウンドの鐘がなった。

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