第97話 清洲騒動(8) お市の帰還。

お市は魯坊丸ろぼうまると別れて、渡し舟で土岐川 (庄内川)を渡った。

雨が止んだ後の土の匂い、風の囁きが心地よい。

岩塚に立ったお市はそっと息を吸った。


「わらわは帰ってきたのじゃなぁ!」


京の乾いた風も嫌いではないが、ちょっと湿っぽく土の匂いが湧き立つような故郷の風の方がやっぱり好きだと思えた。

お市はにっこりと笑うと足で牡丹の腹を叩いた。

巨大な猪の牡丹はお市の命令どおり、駆け足で走り出す。


「お市様、まだ他の馬が降りておりません」

「早い者勝ちじゃ! さっさと付いて参れ!」


下女の千雨ちさめが止めたが、お市は止まるつもりがない。

お市の下女たちは諦めた。

お市様だから仕方ない。

そう思って、下女たちがお市を追い駆けてゆく。


「お市様だ!」

「お市様がお帰りになった」

「なんだと!」


近くの村に残っていた者がお市を見つけて騒いでいる。

馬でない乗り物に乗っているのでよく目立った。

信長はよく村々に出掛けることが多く、祭になると餅を持って遊びにくる。

村人から『若様』、『お殿様』と呼ばれて慕われている。

そのお出掛けの日に、何故か村の前でお市が待っていたりする。


「わらわを一緒に連れて行ってたもれ!」


にっこりと笑うお市に「駄目だ! 帰れ!」と突き放すほどに信長は厳しくない。

むしろ、きりっとしたカッコいい顔が崩れ、目がとろんと垂れ下がって『仕方ないのぉ!』と許してしまうのだ。

身内に甘々な信長であった。

そう言う訳で、信長とセットで那古野の村人からも慕われていた。


そう言えば、熱田では魯坊丸ろぼうまるの妹のさとと一緒にお出掛けしているので、熱田でもお市は大人気だ。

元々、末森の姫なので末森の者からも慕われている。

そして、京で大活躍したことが瓦版に載り、天女として知れ渡ったので、皆が『うちの姫様』と勝手に慕っていた。

牡丹が疾走し、あっと言う間に見えなくなった。

牡丹が駆ける。

すぐに熱田が見えてきた。

物見台の衛兵がお市の姿を見て騒ぐ。


「お市様だ! お市様がお帰りになった」

「お市様だと?」

「魯坊丸様は?」

「見えません。後ろに千代女様のお姿は拝見できます」

「どういうことだ」

「すぐに年寄方に知らせよ!」


奇妙な乗り物に乗った幼女が近づいてくれば、嫌でも目に入った。

魯坊丸の帰りを心待ちにしていた熱田の者は大騒ぎだ。

走る衛兵を見て、『魯坊丸様がお帰りになった』、『魯坊様だ!』と熱田の民が口々に騒ぐ。

熱田明神様のお帰りだ!

皆が溢れてやって来た。

だが、門をくぐって来たのは巨大な猪に乗ったお市であった。

ちょっと残念!

でも、噂の天女様の帰還にほっとした。

すぐに走って来た町の年寄衆が出迎えてくれる。


「お市様、お帰りなさいませ!」

「出迎え大義じゃ!」

「それで魯坊丸様はいずこにいらっしゃるのでございますか?」

「魯兄じゃは那古野の北の今川勢を先に退治してから戻ると言っていた。わらわは魯兄じゃが戻るまでここを死守せよと命じられた。もう大丈夫じゃ! わらわが帰ってきた」


何故か、民衆が沸いた。

そもそも魯坊丸様はそんなこと言っていません。

後ろを走って着いてきた千代女が心の中で突っ込んでいた。

熱田への帰還を希望したのはお市自身である。

おそらく、お市の中ではそう言うことになっているのだろう。

じゃじゃ馬娘ぶりに魅餓鬼みがきが掛かってきた。

〔注、魅餓鬼:磨きをもじった。千代女の造語。人を魅了する餓鬼(子供)〕


「大喜様、熱田の湊はどうなっておりますか?」


千代女は頭を切り替えて、年寄の大喜に尋ねた。

熱田の湊はいつ敵が襲って来てもいいように湊の者が守っているそうだ。

町の守備兵も回し、万全の体制で待ち受けている。

熱田の倉を開けて、秘蔵の鉄球も配布したと言う。

大喜は顔を近づけて、耳元でぼそりと言った。


「宮司様と相談し、火薬玉も配布しております」


熱田神社に奉納した火薬玉10個も用意しているらしい。

大船に対して、火薬玉は絶大な威力を発揮する。

威嚇として最強の武器だ。

ならば、熱田の湊は問題ないと千代女は安堵した。


「こちらはお任せ致します」

「お任せ下さい」


民衆受けするお市と違い、千代女は本当の魯坊丸の懐刀だ。

千代女の言葉は魯坊丸の言葉。

熱田の年寄衆は少なくともそう考えている。


「井戸田の方に鉄砲をお回ししましょうか?」

「こちらは大丈夫ですか?」

「こちらには30丁ございます。店の鉄砲を集めるならば、20丁ほど回せます」

「30丁のみで足りますか?こちらで使った方がよろしいと思います」

「残念ながら使い手がおりません」


千代女はなるほどと納得した。

信長が鉄砲隊を作って以来、鉄砲の需要が増えてきた。

実用性はともかく!

上洛でも根来衆の鉄砲隊100人が一緒に上洛したので、鉄砲を持つことが今の流行になってきたのだ。

熱田の商人もこの流行に乗り遅れない為に国友や根来から鉄砲を購入していた。

一丁を10貫文、15貫文で買ってくれる領主がまだまだいるのだ!

ここで儲けない手はない。

商人としては織田の鉄砲も売りたいのだが、魯坊丸の方針でどこにも売っていない。

国友や根来は薄々勘付いていそうだが敢えて声に出す訳もない。


「千代姉じゃ、これからどうすればいいのじゃ!」

「山崎に向かいます。おそらく、山崎は大丈夫と思われます」

「山崎は舟が着く所じゃな!」

「山崎に回すくらいならば、井戸田か、夜寒に今川は舟を投入してくるでしょう」

「わらわは井戸田が危ないと思うのじゃ!」


千代女が「えっ?」とキョトンとした顔になる。

魯坊丸から言われたなら納得するが、お市が判っているのが不思議に思えた。

どうしてそれをと言う顔をしていたのだろうか?


「井戸田に遊びに行ったら、美味い店がないのじゃ! 金物屋とか、どうでもよいものばかりじゃ! 茶店の団子も拙かった。あれではいかんのじゃ!」

「団子ですか?」

「甘くない。もっと水飴を使うべきじゃ!」


お市が何を言っているのか判らない。

ぽんぽんぽんと千代女の頭の上にクエスチョンマークが生えていった。

やはり意味が判らない。


「つまり、甘味の店を出すまで手が回っておらんと言うことですか?」

「流石、大喜の爺はよく判っておるのぉ!」

「もっと饅頭屋とか、野菜焼きの店を出すべきなのじゃ!」

「ほほほ、それは無理と言うものだ。客が来ません」

「どうしてじゃ?」

「夜寒の里は中根南城の女中らが食い道楽で里に出て食べ漁ってくれるが、井戸田の周りの農村はまだ貧しい。食い道楽などできる者はおりません。つまり、売れぬのです」

「城の者はおるであろう?」

「井戸田に行くもより熱田に行く方が近いのにですか? こちらに来る方が店が多いでしょう」

「そうか、なるほどなのじゃ!」


お市も納得したようだ。

まさか、甘味の店がないことで設備が整っていないことを指摘するとは思いもしなかった。

その通りだ!

潮が引いて、徒歩で渡河できる場所のみは防波堤を作って何とかそれらしく守っているが少し外れると、まだ建造中の防波堤が多く残っており、すべてが繋がるのにまだまだ時間が掛かるのだ。

変な所でお市に見破られていたのが意外であった。

やはり、お市の言葉を理解できる年寄の大喜は大したものだ。

などと、和気藹々わきあいあいと話している暇もない。


「では、こちらはよろしくお願いします」

「お任せあれ!」


千代女らは熱田神社に向わず、山崎に直行する。

予想通り、舟着き場に向かってくる敵は現れていない。


「特に変わったことはありませんか?」

「昨日と今朝の舟が戻って来ておりません」

「襲われましたか?」

「おそらく」


笠寺には、今川に抵抗する勢力がわずかに残っている。

夜と朝に食糧を所定の場所に運んでいるのだが、その舟が戻って来ていないと言う。


「松巨嶋の者は皆、殺されたのか?」

「いいえ、敵は舟を見張っていただけでしょう。笠寺の残っている者をすべて根絶やしにしようとすれば、こちらに泳いでも逃げてきます。笠寺の者は身を隠しており、今川もこちらに情報を渡したくないだけと思われます」

「う~ん、難しいことはよく判らんのじゃ! 生きておるならば、それで良い」


お市の言う通りだ!

今、笠寺のことを考えても仕方ない。

そう思った千代女は大喜村に向かう。

すでにお市が戻って来たのを聞いたのか、大喜東北城の岡本久治が出迎えてくれた。


「岡本様、お久しぶりでございます」

「あいさつは無用だ」

「では、井戸田はどうなっておりますか?」

「先ほど、今川勢が押し寄せてきた。隠居された入道全朔にゅうどう-ぜんさく殿が指揮を執っておられる」

「全爺が取っておるのかや?」

「はい、領主様方々は信長様と共に出陣されておりますから、経験豊かで老練なご隠居様と初戦に臨む勇猛果敢な若人が村人の指揮を執っております」

「千雨、どういう意味じゃ?」

「つまり、よぼよぼの老人と初陣前の青二才のみで戦っていると言うことです」

「それは不安しかないのじゃ!」

「まったく、その通りでございます」


お市の下女の指摘に久治の顔が渋くなる。

わざわざ遠回しに言っているのに!

千雨の忠誠心はお市にしか向いていないので容赦がない。

いすれにしろ、これが初陣になる武将が指揮を執っていると言うのは拙いと千代女も思った。

思った瞬間、お市が動いた。


「千代姉じゃ、急ぐのじゃ!」

「お市様は中根南城に!」

「そんなのは後じゃ! 牡丹、行け!」

「お市様、お待ち下さい」


じゃじゃ馬娘め!

千代女が舌を打って、すぐに追い駆ける。

大喜村から井戸田へ十二町 (1.2km)しかない。

全力で走れば、あっと言う間だ。


「井戸田の関所なのじゃ!」

「門が開いております」

「牡丹、行け!」

「お市様をお守り致します」


おぉ、護衛の下女が声を合わせる。

お市が牡丹に乗ったままで門をくぐった。

千雨らがお市の前に出て陣形を組んだ。

だが、その心配はない。

門の外は味方しかいないからだ!

かなり、押していた。


がやがやと辺りも騒がしい。

皆は口々に何かを叫んで石を投げ、兵は矢を射っていた。

槍を持つ兵は怒号を上げる。

これが双方で声を上げているので、ずごごごぉぉぉと言う騒音でしかない。


「馬鹿者め、お市様を制止しろ!」

「加藤様、私は」

「いい訳は無用だ。こちらが周囲を警戒している間に移動するな!」

「ですが、お市様が!」

「守れなくなっては意味がない。それともお主らは儂より強いのか? 今度、死合ってみるか?」

「無理です。お許し下さい」

「ならば、止めはせぬがこちらの指示に従え!」

「判りました」


横に立った加藤が千雨らを叱った。

お市の護衛10人の内、5人が先行して偵察している。

残る5人が侍や下女に扮して護衛を続けた。

付かず、離れず、お市がどこに向おうと文句も言わない。

お市を制止するのは千雨らの役割であった。

索敵で井戸田の様子を見ていた加藤の目に関所の門をくぐってくるお市の姿が見えた。

慌ててお市の側に付いたのだ。

つまり、千代女が所々で足を止めているのには理由があったのだ。


さて、井戸田の衆は魯坊丸に関所の門を閉めて戦えと言われたのに、どうやら門を開いて討って出ていたようであった。

魯坊丸の心配が当たっていた。


『押せ、押せ、押し崩せ!』


がしゃん、がしゃんと槍と槍が当たる音が飛び散っていた。

熱田の村人が今川の兵を押している?

その様子を見て、千代女が首を捻った。

精強な兵は熱田に残っていないハズだ。

しかも先駆けとなる武将も不在という状況である。

討って出て勝てるのは可笑しい?

その中に隠居して出家した西加藤の加藤隼人延隆入道全朔かとうはやと-のぶたか-にゅうどう-ぜんさくが馬に乗って、刀を振って鼓舞していた。


「全爺じゃ!」

「お市様、味方が押しております」

「行け行けなのじゃ!」


今川の兵は悲壮感が漂う必死の形相で戦っている。

それでも熱田の兵が押していた。

よく見れば、痩せ細った兵ばかりだ。

その後ろには動けない老人や女、まだ幼い子供が槍を持っている。

これは今川の兵ではない。


「加藤!」

「判っている。ご隠居様を連れ戻してくる」

「お願いします」

「千代姉じゃ、何か拙いのかや?」

「あの兵は囮です。後ろに今川の本隊が控えています。前に出過ぎれば、本隊が突っ込んで来ると思われます。こちらは数で劣勢、正面から戦えば、勝ち目はありません」

「つまり、門を閉じて、投石に徹すれば勝てるのじゃな?」

「その通りでございます」

「わらわも魯兄じゃに負けぬように勉強しておるのじゃ!」


お市がえへんと胸を張った。


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