第96話 清洲騒動(7) 蛇池の戦い。

掛川城主の朝比奈 泰能あさひな-やすよしは遠江衆1,000人を連れて10日に三河に入り、各所で山狩りの指示を出して、三河で兵を集めた。

14日には遠江・三河で陣触れを出し、西へと移動を始める。

今川の癇癪かんしゃくに付き合わされるのかとげんなりとする井伊谷の井伊 直盛いい-なおもりや長沢松平家6代当主の松平 親広まつだいら-ちかひろや西三河の本多 忠真ほんだ-ただざねらの姿があった。


18日の朝に沓掛城を出発する。

これが山狩りではなく、織田狩りであることは承知していたが細かい説明はない。

直盛らは出発前に三日分の食糧を渡された。

折戸で丹羽勢の先々代の当主である丹羽 氏清にわ うじきよと合流する。

そして、遠江・三河の一部と分かれ、直盛らはそのまま北上を続ける。

岩崎城を北上すると木々の奥深い森である長久手に入った。


開拓すれば良い土地になるのだが鉄製の道具が少ない村人にとって森を切って広げるのは重労働であり、深い森は開拓地にならなかった。

森の隙間に小さな集落があり、広大な土地の割には人口が少ない。


泰能の今川勢は矢田川を渡って守山に入る。

小幡城に近づく頃に信光から通行の許可が届いた。

暴れ川の土岐川 (庄内川)が大きく蛇行し、辺り一面が荒地と湿地帯が続いている。

雨が止んで水量も収まって来たが川が深い。

無理をすれば渡れなくもないが、胸までびしょ濡れになるのは避けたい。

近くの小舟を集め、その上に板を並べて簡単な橋を作って渡ってゆく。

その小舟が流れないように支えている足軽らが大変だった。

お天道様は真上に来ていた。


そこから土岐川 (庄内川)に沿って下っていった。

すると、那古野城が微かに見える味鋺あじまに入る。

味鋺には小さな丘が点在する。

味鋺古墳群あじまこふんぐんだ。

古い神社や行基によって建立された薬師寺などがある。

皆、門を閉ざして静かに見守っていた。


土岐川 (庄内川)に矢田川や八田川が合流し、まるで大きな池にように川裾が広がっている。

川は大きく右に蛇行して、氾濫した爪痕のような池が点在し、土手の外側に街道が走っている。

街道は土手と蛇池と呼ばれる間を通っており、その向こうで織田の旗が棚引いていた。

泰能の眉間にシワが寄った。

ざっと見て一万人以上が隊列を組んで待っていたのだ。


「織田にこれほどの余力があったとは思わなかった」

「然れど、鎧も付けぬ者もおりますれば、寄せ集めかと存じ上げます」

「そのようだ」

「信光の旗か?」

「いいえ、那古野織田のようです」


織田木瓜おだもっこうの旗は家によって微妙に違う。

遠目に見て比べるのは難しい。

しかし、その横に上げられている永楽通宝紋の旗は信長しか使わない。

すぐに那古野勢と判る。


左雁行ひだりがんこう(斜線陣)ですな」

「主力を左に集めたのであろう」

「では、こちらは右翼を厚めに致します」


織田の陣形は左が前に出て斜めに兵が並んでいる。

蛇池を越えると街道を土手に添って左に曲がっている。

街道に沿って兵が斜線を引いているように見える。


「それにしても随分と後に下がっているな」

「狭くなっている場所では大軍の有利が使えません。出て来いと言っているのでしょう」

「どうするか?」


雪斎の策では守山の信光の兵を足止めの為に泰能はここまでやって来た。

それ以上の魚が釣れたと思えば、上々であった。

これほどの大軍を用意したならば、末森や熱田への援軍は無理だろう。


「こちらは横一列に陣を組め。但し、ゆっくりとだ」

「襲って来たら引いて戦え」


雨が上がったが適度に足場がぬかるんでいる。

これでは蛇池を迂回して攻めるのは難しそうだ。

また、土手の向こうは河が近く、兵を隠す場所もなかった。

織田の意図が見えない。

泰能ら今川勢を通せん坊しているだけであった。


「すでに清州の戦いは終わり、我らの背後を取る別働隊がいるのでしょうか?」

「あり得ん」


あり得ないがここで対峙して時間を浪費するのは得策には思えない。

すでに熱田での戦いは始まっている時間であった。

申の刻 (午後4時)には海の水位が上がり、熱田の戦いは終わっているハズである。

あと一刻 (2時間)だ。

仮に雪斎和尚が熱田の攻略に失敗した場合、泰能らは信長らが戻って来れば敵中に孤立することになる。

それも信長が生きていればの話だが…………どうなっているのやら?


色々と考えても答えはでない。

敵は大軍であったが、烏合の衆だ。

敵の左翼の騎馬隊を抑えれば勝機が見える。

手柄首が向こうから飛び込んできた。

そう思うことにした。

そもそも泰能も戦わないで引くと言う選択はなかったのだ。


半刻 (1時間)ほど掛けて今川勢がすべて出て来て陣を引き終わった。


「待ってくれましたな」

「余程の自信家か、臆病者のどちらかだ」


次は戦口上と思っていると織田の法螺貝が鳴った。

ここまで待ちながら戦の礼儀をここで崩した。

意味が判らない?

予想通りに織田の左翼の騎馬隊が凄い勢いで前に進んでくる。


『弓、引け』


指揮官が「よく、狙え」と叫ぶ。

無策で突っ込んでくる騎馬隊に泰能の頬が緩む。

勝ったな!

大量の弓隊を右に配置した。

織田が騎馬隊を持っていた事にびっくりしたが、所詮は100騎余りの少数である。

無数の矢が降ってくれば、勢いも止まる。

弓も構えず、槍だけを持った騎馬隊など弓隊の餌食だ。


否、突如として騎馬隊が右に曲がった?


 ◇◇◇


「何ですと? 左翼で敵の左翼を突けとおっしゃいましたか?」

「あぁ、そう言った」

「左翼は敵の右翼に当たるモノですぞ」


作戦を聞いた(柴田)勝家は目を白黒させる。

言っている意味が判らない。


「勝家らの働き次第で、この戦が左右される。ただの勝利ではなく、完勝に導けるかどうかはお前らに掛かっておる」

「ですから、敵の右翼を突き破るのでございますな」

「違う。 狙うのは敵の最左翼だ」


織田の兵は当初より一〇〇間 (180m)も後に布陣した。

これで敵の矢が届かない場所まで下がったが、こちらから攻撃するには一度前に前進する必要が出てきた。

勝家は敵が矢を放つギリギリまで近づくと。馬を右に向ける。


「敵の目の前で腹を晒して走れとおっしゃるのですか?」

「そうだ、敵はびっくりするだろう」

「死ねとおっしゃるのか?」

「突然、あらぬ方向から来た馬を狙い撃てる者はそうそういない。当たったら運が悪かったと死んでくれ」

「無茶を言いますな」

「無茶を言っている。こちらの左翼に騎馬隊を配置したのだ。敵は右翼を厚くする。つまり、左翼が手薄になる。ならば、敵の弱点は最左翼だ」

「そんなことができると思いなのですか?」

「できる。勝家ならばできる。勝家にしかできん。よいか、近づき過ぎるなよ」


俺はかなり無茶を言った。

びびった勝家が早々に馬を右に向けた。

向こうも『えっ?』と驚いているだろう。

敵の矢が飛んだ瞬間に馬を返すのが理想なのだが、こういうことが大好きな慶次が熱田の方に行ってしまった。

代役は勝家に頼むしかない。

案の定、びびった勝家は馬を早々と翻したのだ。

慌てて放たれた矢が雨のように降ってくる。


「死ぬ、死ぬ、死ぬ、うおぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


大きな声を上げて勝家が横切ってゆく。

慶次ならば、斜行にして敵兵の切っ先を通り過ぎるのだろうが、それを勝家にやれと言えない。

だが、幸いに敵が十分に驚いてくれているようだ。

あのどこまでも響く大きな声がいい。

敵もぎょっとして見てくれる。

敵の視線からこちらの前衛が消える。


今川方は突然に目の前を敵の騎馬隊が横切って慌てている。

予想と違うが結果オーライ、茫然と立ち竦んでくれた。

その隙に駆け上がっていたこちらの兵が足を止めて、投石と矢を放つ。


『鉄球、放て!』


勝幡の常備兵は黒鍬衆と似た装備をしている。

非常用の鉄球を二個持ち歩いていた。

この勝幡の常備兵を最前列に並べた。

左翼250人、中央250人、右側500人。

兵士の矢と、村人の石の投石に混じって鉄球が落ちてくる。

安物の盾など突き破る威力を持っている。


しかし、一万個の鉄球を準備できなかったのが残念だ!

熱田と津島に倉庫に用意していたのに、肝心なときに持って来ていないとは情けない。

一投、消滅。

二投、撲滅。

三投、全滅。

圧倒的な数の暴力で頭上から襲って楽勝だったのに、こんな小細工をしないといけないとは本当に情けない。

鉄は銭と同じくらい貴重だから倉に仕舞うのは当然だが、戦で使わないと何の為に用意したのか判らないだろう。


数少ない鉄球が頭上から降って来て敵が慌てた。


「何だ? 何が起こった?」


何が降ってきたのか分からずに倒れてゆく兵に指揮官も狼狽する。

兵は勝家が目の前を通ると足を止めて投石を行う。

これだけだ!

あとは持っているだけの石と矢を撃ち切ったら突撃を掛ける。

単純で間違い様もない。


『鉄球、第二投~放て』


鉄球と一緒に投石と矢が無数に飛んでゆく。

それは左から右へと数珠のように連鎖して、ウエーブのように繋がっていった。

勝家が右端に抜け、そこで反転する。

敵の最左翼に突撃だ。


「行くぞ。 進め、進め、進め」


勝家が通る道は敵の第一陣と第二陣の間だ。

はっきりと一列に並んでいる訳ではないので道がある訳ではないが、何となく隙間が開いている場所を走って、今度は敵左翼から敵右翼まで抜けるように指示してあった。


「敵を横から分断するぞ」

「勝家様に続け」


騎馬隊が通るだけで敵が混乱する。

勝家が通った道を追い駆けるように、右翼に配置した勝幡・津島衆が後を追った。


「魯坊丸、勝幡・津島衆を横に走らせる意味は何なのですか?」


戦場の後ろで一緒に見学していた帰蝶姉上が聞いてきた。


「敵は前から一陣、二陣、三陣、四陣と四層の布陣で横一列の陣形を引いています」

「そうね、そんな感じがするわ!」

「敵はある程度の犠牲を覚悟して、乾坤一擲けんこんいってきの一撃でこちらの総大将の首を狙ってくるでしょう」

「それは怖いわ」


綺麗に並んでいる訳ではないが、各大将と思える武将の位置を見るとそう感じる。

四陣目に総大将がおり、その総大将を中心に配置された感じだ。

一陣で勢いを削ぎ、二陣で乱戦に持ち込み、三陣目が隙を突いてこちらに突き進む。

そんな意図を感じる布陣であった。


「こちらはその一陣と言う皮を剥がす作戦です」

「皮を剥がすの?」

「一陣と二陣を剥がせば、一つの陣はわずか1,000人です。一万人で攻めれば、10人で一人を倒せばいいのですから楽でしょう」

「確かに? そうなるのかしら?」


机上の計算だけどね。

ここで嬉しい誤算が起こった。

一番槍は勝家らの騎馬隊だったが、二番槍が勝幡・津島衆ではなく、土方衆になってしまったのだ。


「何故、あいつらは投石をやらん?」

須小ッ賦万スコップマンは…………『それは何のことだ?』」


怪しげな名前が出たので思わず叫んでしまった。

土方衆の一部を『須小ッ賦万スコップマン』と呼んでいるそうだ。

帰蝶姉上を慕っている連中らしい。

もう、どうでもいいや。


「須小ッ賦万はまだ投石の練習をしておりません。投石ができないのでしょう」

「基本だろう?」


千代女と加藤を熱田に送ったので代わりに神戸 小南かんべ-こなんという伊賀の下忍だった者が守備に付いており、俺に説明してくれる。

加藤らは実力主義であり、元上忍であろうと下忍であろうと関係ない。

俺への忠誠心と能力だけが物差しになっている。

小南が加藤より強くなれば、筆頭が変わることもあるらしい。


どこかでランキング戦でもやっているのか?


それはまた後で聞くことにしよう。

那古野の土岐川 (庄内川)の工事を行っている土方衆は物覚えが悪い奴が残っているらしい。


「魯坊丸様の鍬衆や信長様の常備兵で引き抜いた為です」

「つまり、出し殻しか残ってないのか?」

「そんな所です」


はっきり言って筋肉馬鹿の集団らしい。

一度に覚えられないので塹壕や砦造りのみ教えていた。

スコップを本気で武器と思っている馬鹿だ!

そのスコップの使い方しか教えていないらしい。


「投石ができないから、そのまま突っ込んだのか?」


須小ッ賦万は常備兵を追い越して、着流しのような格好でスコップを振った。

スコップは分厚い鉄製で出来ており、刃先が鋭角な刃物のように尖っている。

一日の作業が終わると、砥石で磨ぐのが日課なのだ。

その方が土に刺さり易い。


動揺している敵の槍をくぐって腹にぐさりとスコップを突き立てた。

地面を抉るようにずこっと抜く。

身が一緒に剥がれておいた。

一撃で致命傷だ。

槍なら腹に穴が空いても助かる時があるが、スコップでは助からない。

もっと無惨なのが顔面だ。

原型が判らなくなるほど抉り抜かれる。


盾で威力が削がれ、肋骨で止まった兵もいた。

だが、次にスコップを横に振り回し、ハンマーの様に振ると顔が凹んで助からないと見えた。

切っ先ならば綺麗に切れたのだろうか?


敵が綺麗に槍を並べて待ち受けていれば、突き刺されて死んだのが須小ッ賦万だったのだろうが、敵が動揺している間に懐に飛び込んだ須小ッ賦万に対応できなかったようだ。

まぁ、須小ッ賦万もそれなりに死んだけどね。


これにびっくりしたのは敵だけでなく、味方の兵も焦った。

須小ッ賦万に当てないように少し遠目の敵に石や矢が飛ばすように気を付けた。

結果として、敵の武将に飛んで行き、その後ろを通る勝家の援護射撃になった。

勝家は後ろに下がってきた武将の首をいくつか飛ばしながら敵を横断し終えて飛び出してきた。


「勝家様、これほど見事な策を見たことがございません」

「俺もだ」

「魯坊丸様は名将でございますな」

「信勝様、織田は安泰でございます」


信勝親衛隊のような騎馬隊の武将の脳裏に魯坊丸の名が刻まれた。

敵を突き抜けた勝家が馬を返す。

勝家が作った道を勝幡・津島衆も抜けようと追い駆けてくる。

よく見れば、敵の左翼が崩れて味方の右翼が突撃を開始した。

一陣目が逃げ出せば、二陣目は敵・味方が入り混じって混乱する。

敵左翼を立ち直らせるのはかなり難しくなった。


「がははは、勝負を決めにゆくぞ」

「勝家様、やりましょう」

「我らの手で勝利を」

「ここからは好きにやってよいと言われておる。敵右翼の大将首を狙うぞ!」


うおおぉぉぉぉぉ、勝家の騎馬隊が再び突撃を掛けた。

騎馬隊の従者達が後ろに付いた。

最初は待機していた従者達だ。

倒した武将の首を狩る仕事が待っていた。


勝家らが再突入して敵右翼の二陣目を引き裂いた。

それを見て、勝幡・津島衆が進路を右に変えて二陣に突入を開始する。

もう敵の兵は手柄にしか見えていない。

武将らは踏ん張っているが、兵が逃げはじめていた。

さらに石・矢が尽きた者から突撃を開始し、須小ッ賦万に続いた。

大勢はおおむね決まった。


 ◇◇◇


勝家が二度目の突撃をした時点で(朝比奈)泰能が呟いた。


「負けたな」

「残念ながら挽回は難しいかと」

「仕方ない。撤退する」

「撤退だ。 撤退」


本陣から伝令が走り、すぐに撤退戦へと移ってゆく。

泰能も勝ちを拾うのは難しいと思っていたのだろう。

あっさりとしたものであった。

後衛を横に広げて味方が逃げて来るのを待ち、味方を追って出て来た敵に横から一撃を与え、そこで反転して撤退をする。

味方を少しでも多く逃がす工夫もあったが、泰能はする気もない。


「本陣が引いているだと? 我らを見捨てる気か?」


勝家の猛攻を耐えていた井伊直盛が叫ぶ。

一陣目と二陣目を犠牲に自分達だけが逃げているようにしか見えない。

生贄にされたと直感した。


「殿、如何なさいますか?」

「最早、逃げることもできん。死ねと言うならば、死んでやろう」

「殿、御一緒仕ります」

「ここが墓場だ」


義元は反抗的な武将を前衛に置く。

勝っても負けても被害が出るのが、反抗的な武将の領地の兵だ。

多くの兵が死ねば、反乱を起こすこともできない。

井伊家は義元を一度裏切っている。

何度詫びようと義元はそれを許さない。


井伊家の犠牲が大きければ、被害の少なかった朝比奈家の力が相対的に増すことになる。

敵の手で不穏分子を排除させて、自軍を強化する。

義元は必ず損をしないように事を運ぶ。


まさか、他も負けているなどと思っていない泰能は不穏分子の排除を織田に任せて帰っていった。


丹羽氏清、松平親広、本多忠真らは命からがら乱戦を巧く逃げ出した。

だが、一万人の大追撃戦に逃げ惑い、遂に落ち武者狩りにあって命を落とした。

戦場で散った (井伊)直盛とどちらが幸せかは聞いてみないと判らない。


一方、魯坊丸はお市の危機と聞いて熱田に急いで戻って行った。

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