閑話.勝家のご満悦。

蛇池の辺りは泥濘ぬかるんでおり、非常に歩き辛い。

馬は馬力があるので苦にせず走ることができる。

こういう時、馬のありがたみを強く感じる。

それを逆手にとった策であった。


法螺貝の音で一斉に兵が駆けてゆく。

末森の騎馬隊は100騎のみだ。

最左翼と言われたが、騎馬隊が隊列の端にぽつんと左斜め前に配置された。

これが織田の騎馬隊ですと相手に判るようにしている。

敵の右翼前方に盾を持った兵がずらりと並び、その後ろに弓兵が並んでいる。

柴田 勝家しばた-かついえはあの中に飛び込めと言われても抜ける自信はない。


「柴田様!」

「判っておる。あの中に飛び込む訳ではない」


騎馬隊は足軽を蹴散らすのを得意とするが、本来は弓で敵を射るのを得意とする。

騎馬隊だけで迂回して後方から矢を射って攪乱する。

そんな使い方が正しい。

200人余りの弓兵が騎馬隊の為だけに集められていた。


魯坊丸が言ったように敵の右翼が厚くなったことを勝家は実感する。

織田の前衛は勝幡城の常備兵と那古野の守備兵を1つの集団と見なして配置している。

特に左翼に弓が引ける者を多く集めた。

一方、右翼は薄く見える。

勝幡城の常備兵を厚く配置したので弓兵の数が少ない。

しかし、土方衆や村衆、町衆の後ろに隠れて、勝田城の兵と津島衆が後ろに配置されている。


戦が始めると勝田城の兵と津島衆は右翼の外、最右翼になって飛び出すことになる。

勝田城の兵と津島衆には走りながら『矢を射よ!』とかなり無茶を言っていた。

できない者への命令は単純だが、できる者への指示は細かい。


法螺貝の音と共に馬を走らせて勝家は実感する。

勝家の下社城の家臣20人が馬の足に着いて来られない。

魯坊丸が言った通りになったのだ!

騎馬隊だけで敵との距離を縮めてゆく。

五〇間 (90m)を切り向こうの目が鋭くなった。

勝家はそう感じた。


「できる限り、ギリギリまで近づいて欲しい」


魯坊丸の要望が脳裏に走る。

矢に向かって走るのは根性がいる。

勝家は歴戦の勇士であり、何度も戦場を駆けて来た。

矢に向かって走るのは慣れていたが、敵の大軍に一騎掛けするような気分を味わったのは始めてだったのだ。


びびった!


肝がぎゅっと引き締まり、胃がきりきりと痛くなる。

はじめての経験だった。

40間 (72m)で敵が弓を一斉に上げた。

撃ってくる!

死にたくない。

勝家の心の中でサイレンが鳴り響き、馬を右に方向を変えた。

末森の騎馬兵も転進する。

100騎が一斉に右に回れをするのだ。


はぁ?

突然の転進に敵も慌てたと言うか、呆れた。

時間にすれば、コンマ1秒にも満たない時間だが、これが勝家の生存確率を上げる。

横に逃げる獲物を狙うのは難しい。

矢を射っても、矢が届くときにはそこに獲物がいない。

下手な弓士では当てることができない。

もちろん、手慣れた弓士は当たる瞬間を描いて矢を射る。


『放て!』


一瞬遅れて、矢が飛んだ。

矢が弧を描いて勝家の斜め後ろから雨のように降った。

当たって死んだら恨みますぞ!

そんなことを考えながら勝家は馬を走らせた。

矢が当たり脱落した者は無視しろ!

背中に矢が当たっても止まるな!

勝家らは盾を背負って走っていた。

持つことができないので胸の辺りを紐で縛って固定している。

兜の上に盾の先が出て、正面から見ると気にならないが後ろから見ると不格好だった。


痛ぁ、勝家の背中に激痛が走る。

体の大きい勝家は盾一枚で入り切らない。

どうやら盾のない部分に当たったようだった。

コツン、コツンと背中に当たる音が耳に入る。

背中がハリネズミにようになってそうだ。


「死ぬ、死ぬ、死ぬ、うおぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


声を出さないと耐えられない。

気の利いた敵がおり、斜め前から待ち受けて矢を射ってくるかもしれない。

魯坊丸がそう忠告していたが、その気づかいは無用だった。


勝家は飛んでくる矢を持っている槍で払い落すなどできようもない。

魯坊丸の周りには割とそれをする者が多い。

公方様は間近で矢を射られても刀で楽々と捌きそうだったし、慶次、千代女、加藤らもある程度だができる。

名武将と呼ばれる者は誰でもできると勘違いしていた。

勝家にはそんな芸当ができない。

敵に弓の名手がいれば、勝家の命は終わっていたかもしれない。

勝家はラッキーだった。


「敵、味方の景色を楽しんでくれ!」


魯坊丸はそう言ったが、全然に楽しくない。

こうして敵と味方を眺めるパノラマを楽しんだ (肝を冷やした)。

そして、勝家には次の仕事が待っている。


敵の武将を狙って飛び込むのではなく、武将と武将の間を抜けろと指示されていた。

武将と戦うなとは言われなかったが、足を絶対に止めるなと釘を刺された。

次は敵と敵の間を走れと言われるのだ!


向ってくると思った勝家らが素通りするのだから敵が混乱する。

勝家自身、何をやらされているのかよく判らない。

とにかく弱そうな足軽らを軽く捌いて馬を走らせる。

ギロリと勝家を睨む敵の視線が入った。

老練で中々に年季が入った方だ。

勝家はやり合いたい気持ちを抑えて、その鼻先を通り過ぎた。


「逃げるのか?」


追い駆けて来た!

ちょっと悔しい。

どうやら追い駆けようとしたので敵の陣が中から綻んだ。

その後ろから勝幡兵と津島衆が切り込むと敵前方の左翼が瓦解している。

退路を断たれたと勘違いしたのだろう。

勝幡兵と津島衆はそのまま勝家らの騎馬隊を追い駆けて突入してくるので、敵左翼の退路は復活する。

しかし、その頃には降ってくる鉄球に混乱し、さらに敵兵に土方衆が飛び込み、一方的な展開になって瓦解し始めた。


目紛るしく変わって行く展開に敵の兵がついて行けない。

混乱したまま敵の猛攻を受ければ、数で劣勢な敵は一溜りもなかった。

突き抜けた。


魯坊丸から言われた仕事を終えた勝家はやっと一息付いた。

ふり返ると味方が勝っているのが判った。

がははは、腹から笑いが漏れてくる。

勝った!

騎馬隊の武将らに笑みが湧く。

この状況を作ったのは自分らだと言う自負だ。


「勝負を決めにゆくぞ!」

「勝家様、やりましょう」

「我らの手で勝利を!」

「ここからは好きにやってよいと言われておる。敵右翼の大将首を狙うぞ!」

「我らにも手柄を譲って下さい」

「早い者勝ちだ!」


うおおぉぉぉぉぉ、勝家の騎馬隊ががらあきの横腹に再び突撃を掛けた。

勝家の家臣らが合流し、敵の足軽を払って敵将を狙う。

どけどけどけ!

そこで遠慮していた騎馬隊の武将らが勝家を追い越して、敵の大将を目指した。

が、その間に敵の側近が入って壁となる。

流石、中堅を任されている大将であって部下も強い。

だが、そんな膠着状態は長く続かない。

敵後方が援軍を出さずに退却を始めたのだ!


「本陣が引いているだと? 我らを見捨てる気か?」


敵の大将が何かを騒いだ。

敵兵が浮足立った所を狙って馬を前に進めた。

敵大将が何か指示を出すと、誰かを守っていくらかの側近らが退いてゆく。


「儂がお相手いたそう」


大将が槍を持って応じて来た。

勝家も槍を持ち上げた。

敵の大将が今川の家臣で井伊谷の大将だと名乗りを上げた。


「ややや、我こそは源八幡太郎義家みなもとのはちまんたろうよしいえが玄孫、足利 義氏あしかがかずさのすけさぶろうよしうじの子、足利 泰氏あしかがやすうじを祖とする柴田修理大夫義勝しばたしゅりのだいぶよしかつが曾孫、尾張の国は上社村に生まれ、下社城主、柴田 勝家しばた-かついえなり、織田弾正忠信勝様の命によりまかり越した。鬼の柴田とは我のことだ。いざ尋常じんじょうに勝負!」

「長いわ!」


敵に怒られた。

井伊谷の井伊 直盛いい-なおもりと名乗った大将が怒るのも無理はない。

名乗りは簡潔な方が良い。

待ってくれた直盛はかなり気の良い大将だ。

直盛にすれば、勝家は冥土の土産だ。

仲良く、地獄を旅する仲間にしようと思っていた。

がしん、がしん、一振、二振と槍を交わす。


勝家は大きい体を使って大槍を振り回す。

直盛はそれを捌いて、一突き、二突きと突いてくる。

中々の好敵手であった。


「なんの、なんの、まだまだだ!」

「その体格が羨ましいぞ!」

「代わってやらんし、くれてやらん」

「仲良く冥土に旅立とうぞ!」


死を決意した者は中々に厄介だ。

捨身の攻撃などと言うが、味方を逃がす為に留まった敵は本気で死ぬ気だから遠慮がない。

火事場の馬鹿力も相まって、勝家の豪撃を何度も受けられた。

手強い!

生死を賭けた攻防が続く、どちらも笑っている。


直盛の足軽らは逃げてしまい、家臣らも次々と討ち取られてゆく。

大将同士の戦いなので横槍を入れる馬鹿もいないが、周りがほとんど織田兵になってゆく。

がちん!

最後に槍と槍がぶつかって、手が痺れたのか直盛の槍が手から零れた。


「ははは、某の負けでござる」


少し距離を取って馬を下げた。


「最後に好敵手に恵まれたのは武士の誉れでござる。この首、持って行きなされ!」


そう言うと脇差を抜いて首に当てて刀を引いた。

ずばぁっと血が飛び出して、噴水のように吹き出した。

直盛がにやりと笑いながら馬から落ちていった。

従者がすぐに近寄って首を狩った。


「柴田勝家様、敵将、井伊直盛、討ち取ったり!」


うおおおぉぉぉぉ、周りの家臣や武将が鬨の声を上げた。

これで終わりではない。

先に行った騎馬武者を追い駆けねばならない。

追い駆けねばならないのだが、勝家はそこで息を吸い直した。


織田の兵は蛇池の合間を抜けて敵を追いはじめていた。

あちらこちらで武将を取り囲んで小競り合いが起こっている。

味方同士で首の取り合いだ。


総大将を任された織田 信実おだ-のぶざねも敵を追って駆けてゆく。

家臣らも多くの首を取ったので満足そうだった。

そして、好敵手に恵まされ満足してしまったのだろうか?

勝家はそのまま勝ち戦を眺めて足を止めていた。

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