第93話 清洲騒動(4)今川の都合で尾張を動かす義元。

日下部の東側に美濃路が通っており、清洲の援軍がその道を上がり、岩倉の先発隊は信長が通った廻間はさまを通って近づいてくる。

清洲の援軍がそのまま美濃路を北上して背後を突くなど考えられないが、信長は用心して亀翁寺の南 (後に総見院が建立される場所)に移動した。


亀翁寺から美濃路をもう北上すると長光寺が見え、立部荘という荘園に入る。

この村は中立を宣言している。

その北側に大里砦 (浅野屋敷)が造られたからだ。

内心は清州に臣従しているが、砦の建設にも協力したので中立を認めた。


まぁ、信長にも年貢を納めると言っているので文句は言わない。


荘園には寺領も多く、どれだけの兵糧を清洲に納められているか?

わずかな兵糧に目くじらを立てるほど信長は子供ではなかった。


この美濃路より東は五条川の湿地地帯だ。

蛇行した五条川が流れている。

小さな林が点在し、あちらこちらで湧き水が湧いていた。

神社も多く、川の氾濫を恐れてスサノオなどを祀って鎮めている。

他に豊作を祈る稲荷社もあった。

そして、五条川を少し昇ると青木川が合流している。

この青木川に沿って鎌倉街道が走る。

下津、赤池と多くの寺院が立っていた。


この赤池の鎌倉街道に入る前に引き返した犬山勢は何をしに来たのだろうか?


美濃路から急に鎌倉街道が出て来てびっくりしたかもしれないが、大里砦 (浅野屋敷)を通り過ぎた辺りで分岐して、美濃路は西に稲葉宿に向かい、鎌倉街道はそのまま北上している。

つまり、大里砦 (浅野屋敷)はこの2つの街道が合流し、砦は清洲に向かう兵を牽制する為に建てられていた。


さて、亀翁寺の南辺りを戦場に設定したのは、信長が中立を宣言している立部荘を気遣ってのことだ。


東側は湿地帯で迂回が困難であり、西側に遊撃隊として伊丹康直、森可行、森可成、前田利春、池田恒興らを配置して備えた。

これで敵の清洲の援軍と岩倉勢とは正面から戦うことになる。


「鉄砲、弓隊を前面に押して、半方円陣を引け」


敵も犬山勢が来ると信じている。

犬山勢が到着するまでは、積極的に攻勢にでない。

そして、信長はもう積極的に戦うつもりはない。


こうして布陣したままで睨み合いとなった。


 ◇◇◇


信長の元にやっと太雲たうんが戻って来た。


「遅い!」

「申し訳ございません」


太雲は新五条大橋を越えて、稲生で土岐川 (庄内川)を渡り、那古野を経由して、矢田の船着き場から矢田川を渡って守山城に入った。

6里 (23km)の道のりであった。

(片道で1時間30分程度)

もう出発してからすでに二刻 (4時間)は過ぎていた。


「どうなっているのか説明しろ?」


信長が声を荒げた。

清洲の奇妙な動き、岩倉勢に出し抜かれたこと、犬山勢の撤退。

思いもしないことが重なっていた。

信長の目と耳である太雲が機能していない証拠だ。


「重々に承知しております。まずはこの者の話をお聞き下さい」

「奥方に御仕えしております。宍人ししひと衆の小頭の御馬瀬みませでございます」

「承知している」


信長も何度か顔を合わせたことがある。

村雲流の忍びの一人だ。

帰蝶の命で三河の様子を伺いに行ったが東尾張で伊賀衆に追われたことを話した。


「奥方様の予想では村木での砦建造は偽装であり、今川の兵が知多に押し寄せていると思われるとの事です」

「狙いは熱田か」

「奥方様はそう予想されております」


ちぃ、信長が舌を打った。


あぁ、ヤラレた。

清洲の信友、岩倉の信安、岩崎の丹羽を裏から糸を引いていたのは今川義元だ。

今川義元にしてやられた。

悔しそうな表情をする信長に太雲がさらに言う。


「岩崎城の丹羽氏勝が末森方面の寝返った浅田城へ向けて進軍しておりました」

「何、おかしいではないか?」


岩崎の丹羽は守山の信光に清洲への援軍を送る為に通行の許可を求めている。

丹羽ごときに二か所へ兵を送る余裕などないハズだ!


「矢田川を越えて、清洲方面に向かう丹羽勢は4,000人、浅田城に対峙した丹羽勢は5,000人になります」

「あり得ん」

「事実でございます」

「これも義元か」


信長が気づかぬ内に岩崎城へ兵を送っていたことになる。

違う。

岩崎城ではなく、その後ろの沓掛城だ。

沓掛城はかなり大きく、多くの兵を城内に入れて隠すことができる。

どうやって入れたかと聞く必要もなかった。


かぁ、立ち上がった信長であったが怒りを向ける矛先がない。

足を叩き付けるくらいだ。

これほど悔しいことがこれまであっただろうか?

大怪我をして駿河で引き籠って賊の退治に慌てていると、油断した自分が悔しい。

5日前に戻りたい。

三河より東の情報は一切入って来ない。

今川は好き放題に兵を移動できた。


「熱田方面もその位は入っていると言うことか?」

「おそらく、そうだと思われます」


岩崎丹羽に一万人、熱田方面の鳴海山口に一万人の総勢二万人が押し寄せて来ている訳か!


「因みに魯坊丸ろぼうまる様は三万人と見積もっておられます」

「何故、そこで悪童あくとうの名が出てくるのか?」


後ろに控えていた者が頭を下げた。

信長は顔を知らなかったが、那古野と京を行き交う使者の一人であった。


「15日に三好との交渉が終わった後に京を発ちましたが、美濃・尾張は豪雨によって川が氾濫し、渡河できませんでした。我々は美濃の山奥を迂回して尾張に入りました」


渡された手紙がにじんていた。

手紙の所々が読めなくなっている。


「申し訳ございません。広野川 (木曽川)を渡河しているときに流木に当たり、下流まで流されて遅参致しました」

「そなた一人で尾張まで戻ってきたのか?」

「いいえ、美濃で別れた者が一人、勝幡、守山への使者が一緒に川に流されました」

「であるか。よく生きて戻った。大儀であった」


犬山の謎が解けた。

魯坊丸の手紙で美濃の蝮が動いたに違いない。

ほっとすると同時に腹が立つ。

信長は足をばたばたさせてから、どかっと座り直す。

忌々しい奴め!


信長は思う。

今川と接する那古野に居ながら、遥か遠くの京に居た魯坊丸に及ばんと!

悔しくてはらわたが煮え繰り返り、このまま腹を掻っ捌いてすべて出したくなった。


「儂とどこが違うのだ?」

「信長様」

「判っておる。今は悩むときではない。で、遅くなったのはどういうことか?」

「信安の策でございます」


信安と言うより、これも義元の策か。

岩倉本隊3,000人は五条川を下りながら、20人から30人くらいの少数を切り放し、街道や脇路に分散した。

それが新五条大橋の前で再集結して、500人の兵を出現させたのだ。


3,000人の兵を2,500人と500人に分ければ、すぐに報告が上がっただろう。

しかし、1つ1つが小さな集団であったので、すぐに捕捉されなかった。

再集結したときは、もう新五条大橋の前であった。


「なるほど、それが先遣隊の500人であったか?」

「新五条大橋を封鎖されますと、清洲への道は船を使うか、大きく迂回するしかございません。某も稲生から船で下って迂回して戻って参りました」

「なるほど、それは迂闊であった」


まさか、新五条大橋が封鎖されると連絡路を失うとは考えていなかった。

土岐川 (庄内川)は那古野城を守る大外堀の代わりになるが、船を使わねばならず、連絡に時間が掛かってしまう。


「敵の別働隊は芝原村の生田神社の南部に建造中の砦に借り出された農民です。あらかじめ武器を用意していたようです」

「なるほど」

「2,000人がこちらに、1,000人ほどが各所に散らばされて五条川の東部を封鎖しております」

「退路の確保と言った所か?」

「はい、林家の兵を出して退路を断たせない為の配置と思われます」


東と西の分断。

西の清洲を攻めている信長に、東から攻めてくる今川の情報を少しでも遅らせる為だろう。


「(岩倉)信安も愚かな」

「どうしてですか?」

「それだけの兵を揃えたならば、儂に構わず、(林)秀貞ひでさだの別働隊を討たれた方が儂は困ったぞ」

「確かにその通りでございますな」


秀貞には主だった城主が同行しており、半分近い兵を失い、多くの城主を失えば、清洲との戦に勝っても誇れるものでない。

確実に勝てる戦いを捨てて、信長を討つことに固執していた。


「義元に踊らされよって」


信長を討てれば、それに越したことはない。

しかし、秀貞が窮地になれば、どうだろうか?


信長は清州を放置して秀貞を助けに向かい、その後に那古野に撤退する。


今川にとって信長の帰参が早くなるのは面白くない。

少しでも長く信長を清洲に留め置きたいのだ!


「どう致しましょう」

「そうだな。叔父上おじうえ (信光)が清州を乗っ取った後に岩倉勢に美濃の蝮が動いたことを知らせてやろう」

「岩倉勢は撤退しますな」

「後は、清洲勢に降伏を促し、拒否するようなら潰す。残る丹羽は来てから考えるとするか」

「殿、熱田と末森は如何致します」


太雲が少し慌てた。

東から攻めて来ている今川を信長が気にしているように思えないのだ。

今川が熱田に攻めてくるのは、次の干潮は未の刻 (午後2時頃)だ!


知多の鳴海城と笠寺から熱田に攻め上がってくる。

それに末森の守りも信勝に任せて大丈夫だろうか?

太雲は不安だった。


「何を慌てている。いつでも取れる岩崎の丹羽と鳴海の山口を放置しているのは悪童あくとうだ。十分な備えがある自信の現れであろう」


信長にそう言われて太雲も納得する。

その通りだ。

魯坊丸が不在なので心配だったのだが、その程度のことを考えない魯坊丸ではない。


「義元は見誤ったな。勝ちたいならば、末森に全軍を配置すべきだ。確実に兵を進めたいならば、手薄な守山を先に落とすべきだった」

「魯坊丸様ならば、守山くらいくれてやると言いそうですが?」

「ふふふ、言うであろうな。鳴海・大高以上に補給路が延び、今川の負担が飛び跳ねる。悪童あくとうならば、喜んで差し出すだろう」

「ははは、言いますな」


信長が笑うと太雲も笑い、二人で大笑いをする。


「で、あの悪童あくとうはどこにおる?」

「判りませんが、16日の昼に出たならば遠くない所まで戻っているでしょう」

「であるな、ははは」


もう一度、二人で暢気に笑った。


 ◇◇◇


「千代、俺はもう駄目だ」

「若様、しっかりなさいませ」

「今まで世話になった。すまん、先に逝く」

「若様。もう少しです」


青い顔をした俺は千代女の手を放した。

そして、舟から身を捨てる。

うぷ、胃に入っているすべて吐き出した。


「乗り出しては危のうございます」

「ぶひぃ!」

「魯兄じゃ、この程度の揺れで何を言っておるのじゃ」

「お、まえは、平気な、のだ?」

「この程度は大したことないのじゃ」


桑名湊に到着した魯坊丸は船をすべて借り切り、夜明けと共に出港した。

海はまだ時化ており、熱田まで行ける船はない。

だから、佐屋川を遡って佐屋まで渡して貰う『三里の渡し』を使った。

川は静かになったと言うので出港したのはよかったが、湊の外は入江だった。

舟は上下に揺れる。

俺の胃の中も程よくシェイクされた。

うげぇ!

何度も吐いて、海に落ちそうになる。

その度に千代女に支えられて戻された。


「すまない」

「この程度、苦でもございません」

「まただ」

「我慢して下さい。川に入れば、揺れは小さくなります」

「無理ぃ!」


因みに俺の命綱は牡丹に睦ばれている。

ぶひぃ、ぶひぃ、猪の癖に笑ってやがる。

牡丹鍋にするぞ。


「命の恩人に酷いのじゃ。別に牡丹は笑っておらんぞ」


嘘だ!

駄々っ子のような俺にお市も呆れていた。

船は予想より遥かに遅く、わずか三里(12km)なのに二刻 (4時間)も掛かってしまった。

普段の倍だ。

無理を言って船頭に出港させたので責めることもできない。

身も心も疲れ果てた。

佐屋の湊に入っても、俺はしばらく動けない。


「昨日から魯兄じゃは駄目々々なのじゃ」

「俺は基本的にこんなものだ」

「そんなことない。本気になった魯兄じゃはもっと凄いのじゃ」


お市の期待に応えて上げたいが、俺の体力や運動神経は普通の年より少しマシな程度であって、天才や超人には及ばないのだ。


慶次、千代女、お市は平気そうなのだ?


何故だ?

ジェットコースターを二刻 (4時間)も乗れば、こうなると思うぞ!

三半規管から違うのか?

中身が機械なのか?

舟から降りられない馬も続出だ。

平気な方が可笑しい?

あれはもう乗り物じゃない。


おぉ、デカい図体で青い顔をして舟から降りて膝から崩れている (柴田)勝家がいる。

よかった、仲間がいた。

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