第87話 魯坊丸、公方様に会いに行く。

「よく来た魯坊丸ろぼうまる、余はこの上なく気分がよい。苦しゅうない、ちこうよれ!」


開いた障子の手前で平伏した俺に今まで聞いたことのない柔らかな声で公方様が俺を呼ぶ。

顔を少し上げてゆっくりと近づいてゆく。

爽やかな笑顔を作り、まるで上機嫌のように振る舞っている。

城に入ってきた時、出迎えてくれた (三淵)藤英ふじひでが言っていたように公方様がこよなく気に入っている愛刀『基近造もとちかつくる』を側用人に持たせている。

全身で柔らかい雰囲気を出しながら目だけは笑っていない。

前に行きたくない。

死の予感しかしない!


 ◇◇◇


俺は長逸ながやすとの交渉を終えた (千秋)季忠すえただの話を聞いてから公方様に日が暮れてからお伺いする旨の伝言を送った。

俺だって交渉が決裂したならば、一か八かの決戦に討って出る覚悟だった。

長逸を討ち漏らせば、今日、明日の内に京を出ることができない。

銭で済むなら長逸との対決は仕切り直してもいいと考えた。


はぁ、気が重い結果となった。


交渉には二千貫文も書いて送ったが、最悪でも五千貫文くらいは仕方ないと思っていたが…………。

まさか!

一桁も違う数字を提示してくるとは思わなかった。

ある意味、季忠は大物だ。

ははは、もう笑うしかない。

まさか、今回のいくさ、すべてチャラ (帳消し)にしても元が取れる額を提示するとは思わなかったよ。

勝手に降伏しただけでもお怒りだろうに!

その額を知れば、会った瞬間に首が飛ぶ予感しかしない。

だが、会わない訳には行かない。

他の者では首が飛ぶ未来しかない。

俺でも五分五分だ!

どうして、こんな危ないことをさせ続けられているのだろう?

気が進まない。


日が沈むと月が昇り、俺は武蔵に抱きかかえられて、供を伴って東山霊山城に向かった。

千代女らは月明かりがあれば、余裕で歩ける。

自分が仕掛けた罠に掛かることない。

出迎えてくれたのは藤英だ。

公方様は誰も近づけないほど機嫌が悪く、下手な冗談や強気な態度は命取りになると忠告してくれた。

ですよね!


「もっと、ちこうよれ!」


嫌だよ!

しくしくしく、心の中で涙を流す。


「よう来た! 話だけは聞いてやろう!」


後は問答無用で首を刎ねるって言っていますよね!

兄上(信長)より扱い難しい。

俺は一度姿勢を正し、深呼吸をしてから顔を正面に据えて背筋をまっすぐに伸ばした。

冗談なく面を上げた。


「まずは勝手に降伏の使者を送ったことを謝罪致します」

「謝罪と言いながら頭を下げんのか?」

「まだ、終わっておりませんので下げる頭がございません」

「終わっておらぬ? 交渉は成立したのではないのか?」

「約定は一枚のみ、長逸の手にあり、しかも見届け人もおりません。長逸がいつでもなかったことにできるようにしております」


公方様が少しだけ身を寄せた。

まだだ!

もっと興味を引き付けろ!

まだ、足りない。


「今、京の町では、織田の弱みに付け込んで負けたいくさを『五万貫文』で買い取った卑怯者だと罵らせております」


『五万貫文だと!』


「驚きの額でございましょう。この額ならば全国 津々浦々ぜんこくつつうらうらまで『銭に卑しい三好だ』と広めてくれることでございましょう」


その報告を聞いていなかったのか公方様は固まった。

俺も最初に聞いた時は固まった。

さて、冷静になる前に杭を叩き込もう。


「長逸には町衆を使って煽っております。負けた戦を銭で買った日の本一の卑しき者になるのか、そもそもそんな話はなかったことにするのか、公方様ならば、長逸はどちらを取ると思いますか?」


奉公衆も騒ぎ出した。

金額に驚いているのか、策に驚いているのか?

俺は知らんし、興味もない。

大切なことは公方様が興味を持つことだ。

身を乗り出してまで、この話に乗るまで口を閉じる訳にはいかない。


「そもそも、このような策を弄することになったのは、足利一門の責任でございます」

「余に責任があると申すか?」

「公方様にあるのではありません。足利一門の今川義元が三万の大軍で尾張に迫っていることです。決戦は18日、あと3日しかございません。相談などする暇もございませんでした。私(俺)と公方様の楽しみを邪魔した張本人です」


まさか、まさか、まさか、奉公衆も知らない。

聞いたこともない。

嘘か、本当か、がやがやと騒ぎはじめる。

俺の捏造だと吠えている者もいる。


俺はそれを無視して、公方様を叩き込み掛ける。

夕暮れに京の町で噂を流した。

そして、少し間を開けて、商人らに戦勝の祝い酒を持ってゆかせる。

その場で毒見をして毒が入っていないことを商人らが自ら証明する。

三好勢が酒を呑むかどうかなどどうでもいいのだ!

織田家の弱みに付け込んで銭で負け戦を買ったと言う噂が京の町で広まっていると告げ口をする。

商人らはその銭を目当てに三好に擦り寄って来たと思わせる。

噂を聞いた三好の武将らが町に情報を取りに行けば、尾張に今川三万の大軍が迫っており、魯坊丸とお市様のいない織田では一溜りもないと慌てていると言わせる。

織田はおしまいだ。

三好が貰った十万貫文もただの紙くずになるとも言わせている。


『十万貫文?』


「ただの噂でございます」

「今、そう言ったであろう」

「噂とは尾びれが付くものでございます」


そう、噂だ!


『魯坊丸様もお市様もお可哀想に! 血も涙もない三好の守銭奴め!』


京の町では俺やお市を同情する声が広がり、三好は降伏の交渉で銭を要求したと伝えさせている。


五万貫文と言ったのは三好方なので、まったくの嘘でもない。


元々、三好にはいい感情を持っていない町衆だ。

そこに織田は千五百人、三好・畠山は二万五千人の大軍で襲い掛かった。

だが、勝っているのは織田方だ!

勝っているのに負けねばならぬ。

判官贔屓ほうがんびいき相俟あいまって、三好の悪玉説が渦巻いている。

これを知った長逸がどう思っているのかが見物だ!


「ははは、気にいらんが面白い!」


公方様が膝を叩いて笑い出した。

長逸が怒っている様子でも想像しているのだろう。

だが、その悪態を調べにいった部下が長逸に伝えるだろうか?

そこは敢えて言わない。

やっと公方様の目から殺気が消えた。


「前置きはこれでよろしいでしょうか?」

「まだ、話すことがあるのか?」

「むしろ、ここからが本題でございます」


知恩院では明日の日の出と同時に京を出発する準備を行っている。

残っている兵糧などは知恩院に寄付する。

贈り物などの贈答品は預けておくが、それは敢えてここでは言わない。

無辜の民に荷物はなるべく持たせない。

下手に持たせると襲われかねない。


「まず、熱田衆500人、見回り組900人、従者500人、土方衆1,000人、河原衆2,000人の延べ、4,900人が逃げ出します」


土方衆は京で雇った土木作業員だ。

知恩院に残ってもいいのだが、皆が付いてくると言ったので一緒に移動して貰う。


「その者らが襲われたらばどうする?」

「尾張に帰るのは諦めましょう。ただ、三好も畠山も皆殺し、長逸には生きてきたことを後悔するほどの屈辱を与えてから死を賜って頂きます」

「ふふふ、そこがお主の逆鱗か! ようやく姿を見せたな!」

「無辜の民に流す涙などございません。私(俺)の為に尽くした民に報いる為です。私(俺)の民に手を出すとどうなるかを教えてやるだけです」


俺は思わず、言葉に力を入れていた。

義理兄の忠貞たださだが熱田衆と共に先発隊に入ると言う。

襲われれば、殿しんがりに付くであろう義理兄 (忠貞)は助かるまい。

次期城主の席を奪われてもにこにことしているお人好しだ。

長逸、そのときは償って貰うぞ!

何を気に入ったのか知らないが、公方様がにやにやと笑っていた。


「この者たちは朽木で預かって頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」

「(朽木)藤綱ふじつなを呼べ!」


後部屋衆 (御供衆)の藤綱が呼ばれ、すぐに隣の部屋から入ってきた。


「京に残る織田の衆を朽木で預かって貰いたい。よいか?」

「承知致しました。では、(朽木)成綱なりつなを一緒に付かせましょう」


告衆番衆 (警備衆)の成綱が呼ばれ、俺と一緒に知恩院に戻ることになった。

藤綱は前当主の弟で次男、成綱も弟で三男になる。

現当主の元綱もとつなが四歳であり、当主に代わって藤綱、成綱、輝孝らが公方様に仕えていた。

兄の藤綱を気遣ってか、弟の輝孝てるたかが障子の向こうで控えていたが、公方様は、それを見つけて何か思ったように輝孝と (和田)惟政これまさの名を呼んだ。


「輝孝、そなたに命ずる。義理々々妹いもうとのお市の警護に当たれ、怪我をさせるな! 惟政は輝孝を助けよ!」


わぁ、監視役が付けられた。

尾張まで付いて来させるつもりか?

信用されてない。

当然と言えば、当然か!

話を戻そう。


「熱田衆が逢坂の関を越えた辺りで、俺の側近と尾張衆500人、黒鍬衆100人、根来の鉄砲衆100人の本隊700人が出発致します。二条大橋を曲がり、東山に入る蹴上までが一番危ない場所になると心得ております」

「出口の二条大橋辺りと蹴上辺りに兵を配置されると逃げ場を失うな!」

「南は私(俺)が仕掛けた罠があり、北は三好・畠山の兵が一万人以上を置く広さがあります」

「袋のネズミだな!」

「もし、長逸が銭を貰って満足する武将であったならば、私(俺)の見立て違いでございます。素直に謝らせて頂きます」


くくく、公方様が低く笑った。

どうやら、公方様も俺と同意見のようだ。

そりゃ、そうだ!

そんな殊勝な武将ならば、こんな大事になっていない。


ただ、不安も残る。

紙くずになるかもしれないが、懐に入れた五万貫文という大金だ。

長逸がやる気でも家臣が付いてくるかどうか?

二千貫文ならば食い付くと確信できるが、五万貫文になった為に家臣に止められたという落ちが付いてくる可能性があるのだ。

その場合、家臣らは俺が尾張に帰ることが重要になる。

三好・畠山を撃退したように、今川も撃退して銭を払ってくれという願望が込められる。

このことを公方様には告げられない。


「鉄砲より大きな音を合図とします」

「大きな音だと?」

「聞き間違える心配はございません。大地が揺らぎ、天も落ちてくると思うほどの大きな音でございます。その音を聞いてから川の土手から横槍を入れて頂ければ幸いです」

「何をするつもりだ!」

「ご自分の目で見て下され! 織田の切り札をお見せしましょう」


本当は使いたくない。

一度使えば、誰かに真似をされるかもしれない。

真似をしなくても警戒される。

長逸程度に使うのは惜しまれる。

本音で言うならば、今川義元と争う決戦まで取っておきたかった。

だが、出し惜しみはなしだ。

織田の本気!

公方様が満足する戦いをみせよう。

今日、繋がった首の代金だ!

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