第86話 千秋季忠の命の値段。

三好 長逸みよし-ながやすは突然の織田の白旗に驚いた。

織田は何を考えているのだ?

もちろん、はじめから受け入れる気もなかった。

しかし、弟の兵庫頭 (長勝ながかつ)が一度話を聞くべきだと強く主張し、山城国国人である竹鼻対馬守 (竹鼻 清範たけはな-きよのり)も賛同した。

しかし、家臣筆頭の坂東大炊助 (坂東信秀)などは強く反対した。


「あの織田です。何を考えているのか? 受け入れるべきではありません」

「大炊助殿、このままで何とかなるとか思っておりませんでしょうな?」

「弟殿と言えど、不用意な発言は控えて頂きたい」

「今、必要なことは現実を見ることだ」

「氏綱様らが回復すれば、事態は好転いたします」

「その前に軍が崩壊するわ」

「大炊助様、織田の話を聞くだけです。降伏と言いながら、どんな難題を突き付けてくるのか見定めましょうぞ!」


まだ兵が逃げないのは数で勝っているからだ。

織田の兵が1,500人しかおらず、まだ勝てるかもしれないと思っているからだ。

矢の応酬のみで被害が小さいことも幸いした。

だが、大和勢が壊滅し、士気が上がらない畠山は当てにできない。

それどころか守りに兵を割かねばならず、足手まといであった、

これでは勝つ見込みが立たない。


三好の家臣が離反しないのは後々のことを思っているからだ。

長逸からの報復を恐れている。

ここで断れば、離反する口実にされて長慶ながよしの元に走るに違いない。

離反を止めることができなくなる。

長逸は渋々だが、交渉に応じることにした。


ビリビリリィ、魯坊丸が書かせた約定を千秋 季忠せんしゅう-すえただの目の前で長逸は破り捨てた。

はらりと落ちてゆく約定を見て、季忠は肝を冷やす。

私は生きて帰れるのか?

季忠がそんな風に怯えているように感じた。


長逸はぎろりと季忠を睨み付けている。

降伏とは名ばかりの和議を申し出てきたと思っていたが、本当に降伏するつもりのようだ。

織田が勝っているのに、三好に勝ちを譲ると言っている。

どこまでも小馬鹿にした小僧だった。


季忠から受け取った約定には、

織田家は三好家に敗北したことを宣言し、三好家の命令で白旗を上げて京より立ち去る。

臆病な織田家に免じて、街道の付近から三好家と畠山家の兵を下げて頂く。

その温情と情けに対して、感謝の意を込めて2千貫文を三好家に送らせて頂く。

こんな感じだ。


「二千貫文の詫び料では足りませんか?」

「銭の話をしているのではない」

「首は1つも差し出せませんが、銭で良ければ差し出しましょう。織田家は京より去ります。見逃して頂けるのであれば、五千貫文で如何でしょうか?」


長逸は詫び状を家臣らに見せなかった。

直感で見せるのは拙いと感じた。

だが、結局は同じだった。

季忠の一言で家臣らに織田が本気で降伏する気であることが判ってしまった。

弟を始め、対馬守、備中守、越後守の顔に明かりが灯った。


「まだ足りませんか? 織田は臆病ですから、兵を下げて頂かなければ、安心して街道を通ることもできません。安全の為です。七千貫文を出しましょう」


さらに、銭が吊り上った。

負けたハズの戦が勝ちに変わったのだ。

浮かれもする。

七千貫文もあれば、援軍で被害を出した大和勢に勝利の感状と共にわずかだが銭を渡せる。

三好の面目が立つ。


希望を見つけたような家臣らの顔を見て、長逸は遣られたと唇を噛みしめた。

ヤラれた。

あの小僧め。

どこまでも弄んでくれる。

断れば離反で軍は崩壊し、受け入れれば道化人だ。

三好の面子を守ってくれた魯坊丸に長慶は最大の感謝の意を示すだろう。

長逸は魯坊丸の引立て役にされてしまった。


「一万貫文。これで如何ですか? 必ずや、兵を後にお下げ下さい。お約束です」


さらに値を上げて、季忠の声が高くなった。

なんかノリノリになってきた。

だが、季忠の顔色を窺う所ではない。

家臣らが長逸の顔を一斉に見たのだ。

承知下さい。

無理をなさるな。

殿、諦めて下さい。

お願い致します。

大半の家臣らが籠絡されたようで、認めろ、認めろ、認めろ!

無言の圧力が長逸に掛かってくる。


「二万貫文だ」


あぁ、家臣らは顔を両手で押さえて天を仰いだ。

織田が、織田が、織田が切れて席を立ってしまう。

家臣らの心の声が聞こえてくる。

しばらく、季忠が黙って長逸を睨み、長逸も睨み返す。


「判りました。二万貫文…………『待て、やはり五万貫文だ』」


だぁぁぁぁ、何を言い出すのだ!

家臣らも流石に呆れた。

これは総大将の決断ではなく、長逸の意地でしかない。

もう黙って見ていられない。


「殿、判っておられるのですか?」

「ご承知下さい」

「織田殿、お待ち下さい」

「殿、何をおっしゃったか判っておられますか?」

「撤回を」

「織田様、二万貫文で結構でございます。殿を必ず説得致します」

「黙っておれば、殿を無視して何をほざいているのか?」

「大炊助、現実を見ろ」

「殿に逆らうか」


ふふふ、巧くあしらわれたな!

長逸はこの戦が終わってしまったことを悟った。

家中が割れては戦もできん。

交渉一つでここまで戦況が変わるのか?

長逸は負けを認めた。


だが、武士の意地はある。

残る手立てはこの者を亡き者にして、逆らう家臣もこの場で手討ちにして、そのまま知恩院に攻め入って、一人でも道づれにするしかない。

そう思って顔を上げると、季忠は後ろの従者より紙と筆を貰って、さらさらさらと何かを書いていた。


「これを」


季忠がそう言って約定らしきものを前に出した。

金額が書かれていないもう一通の約定を持って来ていたらしい。

家臣らはそれを広げ、震える手で長逸の元に持ってきた。

そこには、詫び料に五万貫文と書いてあった。


「織田の降伏を認めないのならば、それをお破り下さい。代わりの約定はもうございません。お約束をお守り頂けますか?」


長逸が五万貫文とふっかけて家臣らが慌てる様を楽しんだの料金とでもいいたいのか?

ふざけた返答だった。

呆れた長逸は『承知した』と言ってしまった。

季忠は無事に交渉を終えた。

どこまでも長逸の完敗であった。


だが、うな垂れた肩がすぐに上がってくる。

おかしい?

織田の腰の低さに怪しさを感じた。

何かあった?

すぐに長逸は調べさせた。


夜になる頃に京の町衆から織田が尾張に引き上げる理由が聞こえてきた。

今川が三万の大軍で尾張に攻めてくると噂される。

どうやら一万貫文も五万貫文も大して変わらないらしい。

取らぬ狸の皮算用。

織田が滅べば、どちらにしても紙くずだ。

今川義元が攻めて来たから慌てて尾張に逃げ帰るのか?

ははは、それを聞いて長逸から笑いが上がる。


「大炊助、密かに主だった者のみ集めよ」


長逸の目に再び光が灯ることになる。


 ◇◇◇


さて、交渉を無事に終えた季忠は誇らしげに知恩院に戻ってゆく。

交渉を聞いていた従者も呆れながら口を開く。


「季忠様、流石にあの額はございません」

「気にするな! 魯坊丸様が十万貫文までならば、私の裁量で決めてよいとおっしゃられた」

「勝っている戦に十万貫文を払うとは、魯坊丸様は何を考えておられるのでしょう?」

「ははは、三好如きに一文でもやるのは惜しいとおっしゃっておったわ!」

「はぁ? それでは帰ってお叱りを受けますぞ」

「だが、こうもおっしゃられた。必ず、生きて戻って来いと! その為ならば、十万貫文を払っても惜しくないと」

「なるほど、そういうことですか。確かに向こうも呆れたのか、命拾いしましたな!」


季忠を行かせる為に言った殺し文句だ。

帰って自慢する季忠を魯坊丸は『阿呆か』と怒鳴りたい気持ちであったが、それをぐっと押さえて『あっぱれ。流石、千秋様、大儀であった』と褒め讃えた。

季忠が今回の交渉の様子を誇らしげに何度も語った。


『熱田千秋家、十万貫文』


皆から「千秋家に生まれてよかったな」と肩を叩かれながら小馬鹿にされた。

おかしい?

季忠は昔から憧れていた弁舌や礼法に優れた陸賈や蒯通、酈食其などの説客ぜいかくのような気分であり、少しは褒め讃えられると思っていたのにどうも少し違うようだ。

無事に帰ってきたと言う意味ではそれに値する。

魯坊丸の思惑通りだ。

だが、その魯坊丸は「思ったように行かんものだ!」と頭を抱えていることを知る由もなかった。

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