閑話.お市に仕えた公家の女官の感嘆。
お市様の朝は早い。
朝が早いのは慣れているので苦にならないのですが、この女袴は慣れそうもありません。
お市様は『もんぺ』と呼ばれています。
短い着物を着て、これを穿く。
動き易いのですが不格好な着物です。
「
「
「では、行きましょう」
「そうですね。お市様もお待ちです」
お市様は時の鳥が鳴き出すと起きられ、寺領の外周を駆け足で回られます。
朝に走るのは健康にいいらしいと?
どういう訳か、お市様は6歳と思えない健脚な稚児なのです。
はぁ、はぁ、はぁ、息を切らしながら遠くなるお市様を見つめます。
「隠岐殿、がんばりましょう」
「そうですね」
「織田の方は皆、足が速いのですね」
「まったくです」
お市様には
その方にも公家の作法をみっちりと教えなければなりません。
物覚えは悪くない方なのですが、とにかくお市様に甘い!
お市様を止めると言うことを知らない。
私らでは手に負えません。
そこで
皆さん、足が速くお市様に付いて下さっています。
二周目になると、お市様のお友達がぞろぞろと集まってくるのです。
このような市井の者と交わってよいのでしょうか?
寺領を三周し終えると体操と呼ばれる奇妙な踊りを踊られます。
そして、護身術の時間です。
この時間が一番辛いのです。
「隠岐、そのへっぴり腰は何じゃ! それでは討ち取られるぞ」
「
「武家の姫に仕えるのじゃ! 最初の一撃くらいは受け止められねば、討ち取られてしまうぞ」
「そうなのですか?」
「千雨もそう思うであろう」
「はい、その通りです」
武家はそんな危険な所に住んでいるのですか?
「隠岐様、織田家が変わっているだけです。難波家ではそんなことはありません」
「そうなのですか?」
どちらが本当なのでしょう?
私の祖父は土岐益豊といい、現御当主様の叔父に当たります。
祖母は下女だったので、父は正式な子供と見なされませんでした。
それでも土岐家の筆頭家臣になったのです。
私は物心が付く頃に(飛鳥井)
一応、親族という扱いで大事に育てて貰った記憶がございます。
何でも織田と美濃は仲がいいらしく、私の祖父は養子として美濃國則松の土岐家に入っておりました。
その縁で白羽の矢が立ってしまったようです。
不運としか言いようがありません。
私と一緒にお市様の御付きになった伊豆さんは、備中国賀陽郡八田部領の清水城主の難波宗綱の庶子の娘らしく、私と同じように遠縁の飛鳥井家に奉公に出されました。
一度、どこかに嫁いだのですが旦那様が亡くなって、子もいないので飛鳥井家に戻って私の世話役になったのです。
護身術の特訓が終わると、下屋の方で子供達と一緒に食事を取ります。
市井の者と?
どうも慣れません。
その後は和歌のお勉強です。
毎日、新しい10首ずつを覚えて頂きます。
伊豆さんが下の句をかるたに書いて下さっています。
お市様と私の真剣勝負です。
お市様は和歌を覚えようとしないのですが、百人一首の札にすると覚えて下さります。
まず、10首を書いた紙を渡し、私が読み上げます。
それから5枚ずつの持ち札を持って、お市様と勝負をするのです。
「お市様、遅いです」
「うぅ、負けたのじゃ」
「文字を覚えるだけではいけません。歌の背景を知っていれば、もっと早く取れるハズです」
そう言って、取った札の作者や歌の意味をお市様に教えます。
勝負ごとになると、お市様は一度で覚えてしまわれるのです。
凄い才能です。
5回ほど勝負を繰り返すと私は勝てなくなります。
一日10首、然れど、10首。
お市様はすでに200首以上の和歌を覚えられました。
三カ月もすれば、私の覚えている和歌が出し尽くされてしまいます。
この才能を埋めるのが惜しい。
◇◇◇
お勉強が終わると、お市様は寺に戻って魯坊丸様の様子を伺いに行かれます。
「今日も疲れているそうじゃ」
魯坊丸様は縁側で日向ぼっこがお好きなようです。
時には忙しく評定で叫んでおられますが、大抵は縁側におられるのです。
やはりお市様の兄上らしく、可愛らしい寝顔は愛らしく思えます。
見ていて微笑ましい。
戦で忙しいことを承知されているお市様は無理に起こすような無茶はなさりません。
「魯兄じゃは夜な夜な公方様と悪党を倒す為にお出掛けになっておるのじゃ!」
「そうなのでございますか?」
「隠岐も見たであろう。公方様が悪党をばっさばっさと倒しておった。(近衞)
「魯坊丸様はそんなことをされていたのですか?」
「わらわも一緒に連れて行って貰えるように鍛えねばならんぞ! 隠岐、その方も鍛えておくのじゃ」
「私もですか?」
「そうじゃ、隠岐は『こちらにおわすお方をどなたと心得る。
「何ですか?」
「
右大臣様はまったく理解できないことをお市様にお教えになります。
でも、右大臣様に逆らう訳に行きません。
「さぁ、牡丹に会いに行くのじゃ」
お市様は巨大な猪に『牡丹』という名を与えられました。
牡丹の世話役が一人決められ、朝・昼・夕の三回も体を洗い、布で拭いて、お市様がいつ乗られても良い様に準備されています。
「牡丹、今日も見回りにゆくぞ」
ぶひぃ、この猪はお市様の言葉が判るのでしょうか?
お市様は寺領と外の見回りに向かわれる。
外門を出ると、10人ほどの兵士が付き従ってきます。
外はやはり危ないようです。
私が一番怖いのは、表参道の左側の橋でございます。
表参道は土嚢という土の詰まった袋で遮られ、左手に橋が用意されているのです。
ですが、歩くとぎこぎこと揺れます。
右手の橋が一瞬で落ちて、500人余りの兵が落ちるのを見ました。
あれと同じ橋です。
この橋を歩くときはいつ落ちるのかと思うと生きた心地が致しません。
(左の橋はダミーなので落ちることはありません。橋のように見せているだけです)
兵の皆さん、作業されている方々もお市様を拝むようにあいさつされます。
お市様がいらっしゃるだけで戦に勝つとおっしゃいます。
どういうことでしょう?
◇◇◇
けんぱ、けんぱ、けんけんぱ。
お市様の市井のお友達が地面に書いた丸の上を片足で跳びながら歩く練習をしております。
これができるようになると、お市様の家臣に取り立てるとおっしゃったからです。
「けんぱを馬鹿にするでないぞ。今は地面に書いた輪じゃが、最後はこれくらいの小さい石の上でできなければならないのじゃ」
「輪もそれぞれの間隔が不揃いなので、意外と難しいです。隠岐様もやられてみますか?」
「千雨さん、それには及びません」
お市様は子供達に顔を下に向けるなとか、それらしい指導をされています。
「おい、待て。そこの者」
お市様が急に大きな声を出しました。
「はい、何でございましょうか?」
「ここより先は台所、大風呂場、倉庫しかない。よそ者が何ようか?」
「その台所に荷物を届けるように言われました」
「それはおかしいのじゃ。長屋に住む者以外、許可なく奥に入ることが禁止となっておるのじゃ」
「それは知りませんでした」
「いつも来ている商人でございます」
「嘘を申すな。わらわはここにいる者、通っている者の顔をすべて覚えておるぞ! そなたは今日はじめて来たものじゃな」
「誤解でござます」
「問答無用、どこの手の者じゃ」
お市様は私に説明していた手の平くらいの石を商人風の男に投げます。
男はすっと石を避けますが、すでにお市様は懐から尖った棒を取り出して投げていました。
いつの間に?
しかし、男も慌てることなく、脇差を抜いて軽く弾くのです。
刹那!
商人風の男の腕に
一瞬のことです。
とにかく、お市様が男の前に迫ってゆきます。
お止めせねば。
男は脇差を拾おうともせず、懐に隠し持っていた小刀を取り出します。
危ない。
そう思ったとき、お市様を追い越した千雨さんが男の両手首をささっと切り裂きます。
流石、筆頭の千雨さんです。
「雑魚です。大した奴ではありません。お市様、止めを」
「任せるのじゃ」
やぁなのじゃと、お市様の声が響きます。
千雨さん、お市様をお止めする場面ではありませんか?
私は間違っているのでしょうか?
男から見るとお市様の横から急に千雨が割り込み、交差する瞬間に手首を切られ、千雨の影から飛び上がって向かってくるお市様が見えたに違いありません。
お市様は腰に下げていた木刀で男の額を思いっきり振り抜くのです。
武家では、ここでお見事と叫ぶの方がいいのでしょうか?
着地したお市様が叫びます。
「牡丹、行け」
ぶひぃ!
あぁ~、見事な連携でございます。
すでに走ってきていた猪の牡丹が飛び上がって、男の上に覆い被さって押し潰します。
あの巨体です。
一溜りもありません。
男の方は息絶えだえに倒れました。
私は一瞬の出来事なので声を上げることもできませんでした。
間者をお市様が捕まえたので、「流石、お市様だ」、「織田の守り神様だ」と皆様が大騒ぎです。
どうやら、お市様は守りの女神様のように思われているようです。
もうやんちゃとかいう類いではございません。
皆様はお市様を褒めますが、魯坊丸様のみ叱っておりました。
あぁ、いけない。
八ツ半からのお勉強の時間を過ぎております。
どうしましょう?
とにかく、私は大変な姫様の元に遣わされたようでございます。
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