第79話 信長、おまえの相手などしてられぬ。

土田御前から呼び出された信長であったが末森にやって来たのは日が高く昇り、それからかなり経ってからのことであった。

すぐに来いと言ったにも関わらず、信長はのんびりとやって来た。

信勝も苛立っていたがそれ以上に土田御前が苛立っていたのか、信長を弾劾する。


「信長、参上致しました」

「あなたはこの大切なときに何をやっていたのですか?」

「母上、何をそんなに慌てているのですか?」

「この手紙を受け取って慌てるなという方がおかしいでしょう」

「以前もございましたでしょう。那古野で慌てていても京では事態が変わっているやもしれません。慌てるだけ無駄というものでしょう」

「なるほど、此度は随分と落ち着いているのね! 貴方が仕掛けるように命じましたか?」

「埒もない」


不機嫌さを隠そうともしない土田御前に信長は肩をゆすって、そんなことはないと否定した。

佐久間の讒言ざんげんを信じた訳ではない。

土田御前は信長が弟の信勝を誅殺や押し込めで追い落とそうなどとは考えていない。

そこまでする子ではないと信じたい。

しかし、一方で腹違いの魯坊丸ろぼうまるはまったく信用していなかった。

才能が多彩で優秀な子供だ!

だが、小さな城の領主でしかない。

それで満足する訳がない。

佐久間に言われずとも兄弟を追い落とし、いずれは頭角を見せてくると土田御前は警戒していた。

しかし、まだ7歳だ。

慌てるには早いと思っていたが、どうやら違うらしい。


「本当ですね! 信勝を排除しようなどと企んでおりませんね!」

「ございません」

「信じますよ」

「母上を悲しませるようなことは企んでおりません」

「魯坊丸に唆されたのはないでしょうね?」

「あれはそういう類いの化け物ではありません。大切にしておけば、織田弾正忠家の守護神として暴れてくれることでしょう」


そう言い切ってから信長はちょっと後悔をする。

つい、本音が漏れてしまった。

信長もまた!

あれを化け物と思っていることが露呈してしまった。

失敗だ。

信勝を思う優しい弟だとでも言っておけばよかったと思った。

土田御前の眼つきはより厳しくなった!

逆に土田御前の警戒心を高める結果になったようだった。


「何故、すぐに来なかったのですか?」

「母上、何か勘違いされておりませんか? 信勝の家臣ではございません。当主として認めて従うつもりですが、一方的に命令される立場ではございません」

「この一大事にですか?」

「何か、決まりましたか?」

「兄上、三好との交渉は魯坊丸から三十郎に替え、末森主導で行うことにする」


土田御前との会話に信勝が入ってきた。

いつまでも自分を無視して母上と話していたので不機嫌そうだ。

それに信勝は信長を信用していない。

あの傲慢で好き勝手なことをする兄上が弾正忠家の家督を奪われたままで黙っていないと考えていた。


一方、信長は弾正忠家の家督などどうでもよくなっている。

今、手に入れようとしているのは尾張守護代の地位であり、斯波 義統しば-よしむね様を救出できれば、ほぼ間違いなく手に入る。

守護代を補佐する三奉行職の1つでしかない弾正忠家の家督など、塵に等しいなどと言えば、信勝は激怒するだろうな~としか考えていない。


さて、信勝は三好との交渉を末森主導で行うと言ってきた。

三好と積極的に縁を持ちたいと思うならば悪くない対策だった!

信長はそう思う。

ただ、言い出すのが半月も遅かった。


「承知致しました。魯坊丸を交渉役から解任し、そちらにお譲りします。ただ、兵をいくらほどお連れするつもりですか?」

「目付に津々木 蔵人つづき-くらんど柴田 勝家しばた-かついえ佐久間 盛次さくま-もりつぐを付けて、兵500で上洛させる」

「なるほど、信勝自慢の騎馬隊を預けるのですな!」

「その通りだ! それから信勝ではない、公式の場だ。『様』を付けろ!」

「信勝様、それは申し訳ございません。ただ、足りませんな。責めて一万は用意せねば、交渉の場も設けさせて頂けませんぞ!」


そういうと信長は懐から二通目の手紙を取り出して前に差し出した。

魯坊丸から届けられた二通目だ!

すでに開戦を終え、10日間の停戦を行っている。

三好 長慶みよし-ながよしの上洛を待って、和議を結ぶつもりであると書かれている。

三好の兵は7,000人であり、交渉に赴くならば、それに釣り合った兵数を揃える必要がある。

もちろん、その騒動を鎮圧するつもりならばだ!


手紙を読んだ信勝の手が震える。

土田御前、家老衆が次々と読んでゆく。

織田の兵は1,500人しかいない。

10日後の停戦が終われば、一溜まりもない。

知恩院が陥落してから到着しても織田は非常に不利な立場に追いやられる。

火急的速やかに援軍を派遣せねばならない。

家老衆が騒ぎ出す!


手紙には敵兵500人余りを落とし穴に落として、その安否と交換に10日間の停戦を勝ち取ったなど書かれていない。

筆まめの癖に肝心なことをワザと書かない。

帰蝶宛の手紙にも三好と和議を結ぶので問題ないと書かれており、戦術的なことは書かれていない。

勝介の手紙には逆に詳しく書かれており、魯坊丸のやり方に驚くばかりだと愚痴とも嘆きとも取れる文章がつらつらと書かれていた。

狼狽ぶりが文章に溢れている。


清州周辺の作った砦の戦術を聞いたときの信長と同じ気持ちだろう!

砦の中に敵を誘って、火計で皆殺しとか?

発想がぶっ飛んでいる。

500人も一度に落とす落とし穴など聞いたこともない。

さぞ、三好の連中も狼狽していることだろう。

一度、罠に嵌った敵は罠を警戒し、勢いに任せて攻めることができなくなる。

攻めるのに時間が掛かる。


事情通の太雲たうんによると、

大量の兵糧を買い漁り、尼子と毛利に売り付けているらしい。

畿内では兵糧が枯渇している。

さらに、三好は丹波で戦をしており、三好は慢性的に兵糧が足りない。

知恩院を取り囲んでいる三好を逆に兵糧攻めにするのか?

あり得ない!


この発想もぶっ飛び過ぎて理解もできん。


これを信勝に話せば、間違いなく魯坊丸が騒動を起こしたと決めつけるだろう。

そして、処断するなどと吠える。

阿呆か!

三好は三万~五万人を動員できる大大名だ。

それに喧嘩を売る奴を処断できるか?

逆に、返り討ちに遭うわ!


「兄上、兵を出す協力をして頂きますぞ!」

「おぉ、決まったか!」

「末森から5000人、兄上からも5,000人の兵を出して頂きます」

「それは構わんが、随分と長い間、尾張が空になるぞ! 今川を放置してよいのか?」


忘れていたのか?

阿呆どもめ!

再び、家老衆が議論を始める。

信長は末森と那古野を空にしても左程は心配していない。

守山の信光、勝幡の信実が控えている。

尾張を守るくらいはできる。

しかし、信光が味方と断言できない末森の家老衆は決断できない。

帰ってきたら末森は信光の居城に代わっていた。

そんな冗談みたいなことが起こりうるのだ!


「信勝、何を下らない議論を延々と家老にさせている。意見が決まらないならば、お前が決すればよい!」

「兄上、これは簡単な問題ではありません」

「簡単だ! 魯坊丸を切り捨てるか? 助けにゆくか? そのどちらかだ!」


信長は助けにゆく必要もないと思っているが敢えて言わない。

末森は三好との縁を繋ぐか、切るかの二択であった。

そして、信勝は決断できずにいた。

三好との縁は切りたくないし、末森を危険に晒したくもなかった。

そんな都合のいい策は中々に考え付かない。

信勝は信長の問いに答えられない。


「信勝、おまえは当主だ! 決断を他の者に委ねるな! 常に自分で決めろ!」

「兄上も家老の意見を聞いているでしょう」

「意見を聞いて儂が決めておるのだ!」

「俺も同じです」

「ならば、何故決めん! 家老の意見は三つに分かれている。1つ目は取り止め。2つ目は予定通りに交渉団を送る。3つ目はおまえ自身が出陣するだ。これ以上の議論は無用だ。信勝、おまえが決めるのだ!」


信長が落ち着いた口調で信勝を追い詰める。

家老衆は息を呑み込んで待っていた。

信勝は家老の顔を見てゆく。

そして、蔵人、母上、まるで何か言って欲しそうな顔で二度振り返った。


「信勝、決断を他者に委ねるな!」


信長の怒号は若き頃の信秀のようであった。

土田御前の顔がほんのり緩む。


「大殿」


あの癇癪持ちですぐに拗ねる信長がしばらく見ない間に変わったと思えた。

土田御前は信勝の方に振り返った。

信勝は救われたような顔をする。


「貴方が織田弾正忠家の当主です。貴方が決めることです」


土田御前に見捨てられた。

信勝は顔を落としてうな垂れた。


どうする、どうする、どうする?

信勝は悩む。

模範解答は誰かが用意してくれていた。

信勝はそれを決断すればよかった。

だが、ここに模範解答はない。


取り止めれば、情けないと思われる。

交渉団を送っても京に入れない。

兵を送れば、末森を危うくする。


どれを選んでも正解はない。

追い詰められて、はじめて決断することになった。

信勝は顔を上げ直して言った。


「予定通り、三好との交渉役を差し替える。交渉団は様子を見て、京に入れ! 三好と戦をすることはならん。戦を避ける為に近江に留まることも許す」


信長は頭を下げた。


「御意」


そういうと立ち上がると、体を翻して退出してゆく。

そして、扉を出る前に振り返った。


「どうだ! 自分で決断するのは恐ろしいであろう。それが当主だ! 覚えておけ!」

「何を偉そうに!」

「なぁ、信勝。争う者がいるというのは嬉しいことだな! 自分の足りぬところがよく見えてくる。当主でいたければ、常に足掻け! 足掻いて、足掻いて、自らを磨け! そうしなければ、すべてを奪われるぞ!」

「兄上が奪うつもりですか?」

「ははは、悪い冗談だ。儂は自分が立っている場所を守るので忙しい。お前などにかまってやる暇などない。俺の目に映りたくば、おまえも足掻け!」


ははっは、信長は高笑いをしながら末森城を後にしていった。

信勝は唇を噛みしめていた。

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