第64話 帰蝶様の為にえん~やこら!
信長は熱田から伊勢湾を渡って平島に急いだ!
ざぁ、ざぁ、ざぁ、湊を出ると波が荒くなった。
漁師達はこれでも波は静かと言うが、波を超える度に小さな小早は大きく上下に揺れた。
「殿、危のうございます。お座り下さい」
「大丈夫だ!」
信長は先頭を行く船頭のように舟先に立って前を見ていた。
長門守はこういう所で見栄を張る困った殿だと呆れているが、そんな信長が嫌いではない。
信長の目の前に湾を挟んで知多半島が横たわっていた。
知多半島は田畑も少なく石高もない痩せた土地であった。
こんな痩せた土地には価値がない。
そう思ってはいけない。
なぜなら、熱田、津島に次ぐ、銭を稼いでくれる土地であり、織田家の財力を生んだ1つだった。
知多は鎌倉時代から始まった焼物の産地であり、知多で焼かれる『常滑焼』という焼物は全国に売られるトップブランドであり、現代で言うならティファニーか、ルイ・ヴィトンのような商品価値があった。
しかも伊勢から三河へ向かう中間にあり、物流の拠点としても栄えていた。
室町時代では、知多の半国守護であった一色氏が伊勢・尾張の一部・知多半島・三河を支配しており、栄華を極めた。
ところが応仁の乱で一色氏が没落すると、小豪族だった水野氏、佐治氏、岩田氏、花井氏、戸田氏などが割拠して争うようになった。
この小さな半島内で終わりのない争いを繰り広げていた。
その中の幕府奉公衆であった荒尾氏がいた。
荒尾氏は一色家の家臣であったが、同時に斯波家の家臣でもあったことが縁で織田家に近づいた。
信長の父である故信秀は荒尾氏の後押しをする形で知多に進出した。
荒尾氏の家臣であった佐治氏は、一色氏が持っていた水運を継承することで勢力を伸ばし、緒川水野と競うように知多半島での勢力を伸ばしたのだ。
後に水野氏は三河の安祥城まで勢力を伸ばした織田家と同盟を結び、織田家は佐治氏と水野氏を取り込んで知多半島での勢力を固めた。
しかし、昨年、末森の家老であった
義元はこの策でこの知多半島を狙っていたのだ!
織田家を見限った小豪族が今川方に寝返れば、今川家は労さずして知多半島を掌握できる。
「遠くの駿河より、近くの尾張か!」
「はい、今川義元は知多における力を誇示しましたが、知多の豪族らにとって熱田・津島はお得意様です。常滑焼の最大の消費地である那古野と縁を切るのは死活問題であります」
「ははは、もう笑うしかないな! 海道一の弓取りも見誤ることがあるのだな!」
「その通りでございます。今川の脅威が知多の豪族たちの危機感となり、すべて親織田で団結するとは考えてもいなかったでしょう」
「その通りだ! 半分は今川方に寝返ると思っていたであろう」
「はい。ですが、最大の有力者の水野家が刈谷水野本家と緒川水野家で分裂するとは思っていなかったのでは?」
「(水野)信元は強かな男であるかな!」
「織田家と今川家、どちらが勝つか、見定めておられるのでしょう」
「狸め!」
「殿、油断はなりません。これは微妙な天秤の匙加減で織田家に向いているに過ぎません。織田家が頼りないと思われた瞬間、知多の豪族らは織田家を見切って、今川方へ寝返るでしょう」
「そうだ! 運を天に任せるつもりはない」
織田弾正忠家が未曽有の好景気でなければ、知多半島の半分は今川に寝返るか、日和見になっていただろう。
3年前に知多の豪族らは織田家から賜った蜜柑の苗と芋を育てた。
育った蜜柑はやっと収穫できるようになり、熱田に持ってゆくと高値で買ってくれる。
また、芋は山間でも良く育ち、これもいい値で買ってくれる。
遠くの駿河に売りに行くよりも、近くの熱田に売った方が儲かる。
一度手に入れた富は中々に手放せない。
さらに半島の先端の羽豆崎城の周辺は熱田神社領であり、そこでサトウキビの栽培が始まっていた。
砂糖だ!
皆、これを手に入れたかった。
いずれ、株が増えたら分けてくれると言っている。
織田家との縁が切れなかった。
これが後押しすることになり、知多の大連合が結成するなど誰が予想しただろうか?
「城を攻めれば、後詰の援軍がやってくるので今川方も中々に手が出せません」
「だが、敢えて出陣するつもりみたいだな!」
「おそらく、我々が使った手を真似るのではないかと思われます」
「城を襲わずに村を襲うのか?」
「はい、おそらくはそうかと」
「狼煙を見て(村人も)逃げてくれるとよいな!」
「そう願うばかりでございます」
荒尾家、佐治家、常滑水野家、緒川水野家は織田家に臣従しており、狼煙の意味も履き違えることはない。
しかし、それ以外は対等な同盟であり、織田家から命令できない。
「大高の狙いが名和城であればいいのだが?」
「名和城の守りが固いことは向こうも承知しております」
「であるな!」
名和城は大高の南にある丹後国守護の
応仁の乱の折りに放棄されたが、大高城を追い出された大高水野勢が入り、織田から支援を受けて虎視眈々と大高城を奪い返すときを狙っていた。
◇◇◇
平島の湊では
「出迎えご苦労!」
「この度の援軍に感謝致します」
「で、平島の水野藤助はどうした?」
「大高の手勢が大高街道を東に移動しているので、出迎えは私に任せて先に長草城に向かいました」
「であるか」
平島城の東に長草城があり、その北東に丸根城がある。
大高城から見ると丸根城は南東に一里 (3.9km)、桶狭間村の少し南にあった。
信長もまず丸根城の手前の長草城を目指した。
しばらくすると
「大高勢は途中で南下し、長草領の荒池村を襲っております」
「殿、やはり村を襲いに来ましたな!」
「敵にも知恵があったのかと褒めてやるべきか、予告もなく襲ったと批難するべきか、どちらだと思う?」
「さぁ、某には判りかねます」
「道案内はできるか?」
信長はすぐに進路を変えて、荒池村に向かった。
一方、長草城主の藤田民部は丸根城に援軍に向かうつもりで、陣触れを出して兵を集めている所であった。
荒池村が襲われていることを聞いたが、長草城の水野藤助も100人余りしか手勢を連れておらず、先行して迎え撃つ義理はない。
「これは織田様がやっておられた『釣り討ち』かもしれませんぞ!」
「つまり、我らが出てきた所を討ち取るつもりか?」
「これでは兵が揃うまで動けません」
「仕方ない。織田様と合流するしかないな!」
「そう致しましょう」
「使者を出せ!」
水野藤助は大高街道を進んだと聞いていたので、丸根城を攻めるとばかり思い込んでいたのだ。
そうであれば、丸根城を襲う大高勢の後背を脅かすだけ済んだハズであった。
野戦になると、そうはいかない。
どこを戦場にするか?
そこから選別しなければならない。
信長の動向を知らずに、彼らは彼らなりに戦場を考えていた。
◇◇◇
信長が丘を登り切った所で見た光景は地獄絵図のような光景であった。
どうやら村の柵が壊されて侵入を許し、家々に火の手が上がっていた。
抵抗する者を一方的に虐殺し、逃げ戸惑う女、子供を捕まえて強姦、暴行を繰り返していたのだ。
信長は目をカッと見開いて青筋を立てて、ひきつるような顔が愉快に薄気味悪く笑った。
「ははは、者共、容赦はいらん。一人残らず、血祭りに上げ、織田の恐ろしさを心骨に
信長が静かにそう言うと、集まっていた武将も静かに頷いた。
『すわぁ、掛かれ!』
うおおおおぉぉぉぉ!
間道は狭く、大軍が一斉に襲い掛かるのには不向きな場所であった。
長門守は首を横に振った。
狭い間道から村を強襲するのは悪手である。
村の出入り口を固められるだけで兵は行き詰ってしまう。
「止めるなよ!」
「いいえ、お止め致しません」
「回り込ませると時間が掛かります」
「判っているではないか!」
丘から一気に駆け降りて村に侵入する。
時間がない。
村人を助けるにはそれしかなかった。
先陣の負担は計りしれない。
だが、信長は迷わない。
我らは援軍に来たのだ!
信長の心配を他所にそれ以上に大高勢は慌てた。
兵は乱取りに夢中で敵が襲ってくるなどと考えていなかった。
駆け降りてくる兵の怒涛の声を聴いただけで混乱した。
村の門を閉めることも忘れた。
織田軍も列を為して村に侵入する。
「やややぁ、我こそは織田信長が家臣、佐脇藤八郎良之。我と思わん者は掛かって来い!」
先陣を言いつかった藤八が闇雲に突撃する!
村に突入した直後は敵だらけだ。
選ぶ必要もない。
刺して、払って、また刺した。
小さな体が鞠のように跳ねまくる。
槍の名手は右へ、左へ、縦横無尽に動き続けた。
まるで牛若丸だ!
『命惜しむな、名こそ惜しめ!』
藤八の檄が飛ぶ!
敵中を駆ける藤八に混乱していた大高勢が立て直す暇もなく崩れて行った。
先駆けが道を作ると、後の者が続いて入ってくる。
大高勢は500人余り。
対する信長の常備兵は1,000人だ。
数だけ見れば圧倒的だ!
だが、中身は以前の常備兵ではない。
精鋭500人を清州の砦に残し、準精鋭300人を大野に遣わした。
鉄砲隊を除くと、新鋭の常備兵に代わっていた。
訓練は嫌というほど鍛え上げた。
しかし、この一年を共に戦ってきた者に比べて実践が乏しい。
そんな不安を藤八が一蹴してくれた。
「ふふふ、やはり愛い奴じゃのぉ!」
「よくやってくれております」
大高勢は総崩れで退却していった。
間道の狭さが武将達の追撃を防ぎ、主だった武将を取り逃がすことになった。
だが、同じく間道の狭さが大高勢の逃げ道を閉ざして250人も討ち取るという大戦果を上げた。
随行した佐治為景はほとんど活躍する場もなかった。
織田の兵は怪我人こそ多数いたが誰一人欠けることなく、大勝利を収めたのだ。
ただ一人の例外を除いて!
「この者は救援に来たに関わらず、婦女に乱暴を行った。よって斬首と致す」
ぐざぁ、生き残った村人らの前に引き立てられ、首を差し出させると一刀両断された。
女の話では大高勢に襲われている所を助けて貰い、そのまま襲われたと言う。
その女を見た瞬間に理性が飛んだ。
「ちょっとだけなら!」
「止めろ! 何をしようとしている」
「ちょっとだけだ!」
「止めろ!」
「随分と御無沙汰なんだ!」
「何をしているか?」
他の仲間が駆けつけて、結局のところ行為まで至っていない。
しかし、信長は許さなかった。
信長の
(信長は約定に厳格な生真面目な性格なだけです)
「皆の者、引き上げるぞ!」
為すことを為すと、つむじ風のように去ってゆく。
駆けつけてきた知多の国衆は信長を
◇◇◇
信長は帰途を急いだように見えたのだろう!
整然と帰っていた兵はいつの間にか小走りになっていた。
「おい、疲れた」
「だらしない。それでも織田の兵か!」
「何故、急ぐ?」
「殿は奥方様を心配されて帰途を急がれているのだ」
「どういうことだ?」
「もし、奥方様があんな目にあってみろ!」
「そういうことか!」
「そういうことだ。野郎共、奥方様の無事を確かめるまで根性を見せろ!」
信長は何も言っていないが、兵達の中でそんな噂が立った。
湊に到着すると、舟に乗るのも素早かった。
「殿様、奥方様の帰りに間に合うとよいですな!」
「別にそういうつもりはない」
「判っております」
「そうか!」
「野郎共、奥方様の為に気張れよ!」
(全然、判ってないぞ?)
うおおぉぉぉ、新鋭の常備兵は奇妙な所で一致団結する集団になっていた。
『奥方様の為にえん~やこら! 殿様の為にえん~やこら!』
奇妙な漕ぎ声が瞬く間にすべて舟に広がった。
「殿。慕われておりますな!」
「長門、うるさい」
顔を赤めて凄んでも怖くなかったのだ。
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