第63話 信長は帰蝶を一人で行かすつもりなかったけど?
黒田城へ向かう帰蝶を信長は那古野城で見送った。
那古野城の物見台に立った信長は、段々と小さくなる帰蝶を心配そうにずっと見ていた。
川賊退治に秘策があると言うので任せると言ったが、まさか、一人で黒田城の山内家を調略する策とは思わなかった。
聞かされた時は、もちろん反対した。
「帰蝶、それは危険だ!」
「殿、お任せ下さい。危険などはございません。
「万が一もある。他の者でも良いであろう」
「それを心配しては那古野の城下も歩けなくなります。それにこの策は『美濃の蝮』、その娘のわたくししかできません」
帰蝶の迫力に思わず、許可を与えてしまった。
織田伊勢守家(岩倉織田氏)の家老ならば、那古野織田家と美濃の斎藤家と南北両面で敵に回すのを避けるであろう。
判っているが、やはり心配であった。
「殿、準備ができました」
「であるか」
長門守が常備兵を動かす準備ができたと言って来た。
気の早いことに信長はすでに鎧兜を身に付けていた。
長門守は苦笑いを浮かべながら叫んだ。
「銅鑼を鳴らせ!」
じゃん、じゃん、じゃん、銅鑼の音がけたたましく鳴り響き、信長の出陣を告げた。
大広場には常備兵1,000人がずらりと揃っていた。
銅鑼がなってから集まったには早すぎ、素早い!
だが、今日の兵はどこかにやけている!
最初から察していたようだ。
藤八 (佐脇良之)と山口飛騨守が帰蝶を城外まで見送っており、慌てて甲冑を身に付けて集まってきた。
「おい、もう集まっている」
「早いな!」
「あれ、何か違う?」
「藤八、何を言っている」
「長槍がない」
「今日は赤旗だ!」
「装備『乙』、 海賊でも出たのですか?」
「藤八、本気で言っているのか?」
見る者にとって少し違和感があるのも当然だ。
信長の代名詞の1つである長槍隊が長槍を持っていなかった。
信長は檀上に立っていた。
藤八と山口飛騨守は紛れるように信長の後に並んだ。
長門守が信長に代わって兵に叫んだ。
「本日は水軍の訓練を行う! 熱田より
うおぉぉぉぉぉ、普段の倍ほど大きな怒号が上がった。
皆、何をしに行くのか判っていた。
『出陣!』
指揮棒を振り、信長の声で一斉に兵が駆け足で動き出した。
大門を開けると大勢の人が沿道に集まっている。
今では那古野の風物詩だ。
銅鑼がなると出陣を見に民があつまってくる。
そして、街道から声を掛けている。
「奥方様をお守りしろよ!」
「がんばれ!」
「帰蝶様に傷一つ付けさせるな!」
「無事に戻って来いよ!」
帰蝶が出て行くときも一目見ようと街道に多くの人が集まっていた。
そして、那古野の衆は愛妻家で有名な信長が一人で帰蝶を送り出すとは誰も考えていなかった。
帰蝶を見送った民が次に出て来る信長を待ちわびていたみたいだ。
信長が馬に乗って出てくると観衆の声が高まった。
「信長様!?」
「カッコいいわ!」
「信長様、こっち見て!」
「信長様!?」
帰蝶を見ようと沢山の男共が集まったように、今度は黄色い声援の女性軍が集まっていた。
甲冑を身に纏う信長は凛々しかった。
凛々しい信長と対照的に、今日の兵は顔がにやけてどこか締まらない。
「信長様も奥方様をお守りしたいとはっきりと言えばいいのにな!」
「それを言わぬのが信長様だ!」
「俺達も奥方様を守りたいがな!」
「違いないねえ!」
長門守と
瓦版で京のことを知らせることに大成功し、織田家の人気は上がっていた。
人気はそのまま織田家への忠誠心に変わる。
しかし、ここに来て、思わぬことが起こったのだ。
魯坊丸とお市の人気が急上昇した!
このままでは信長の影が薄くなってしまう。
「父上、本当に必要なのでございますか?」
「絶対に必要だ!」
「随分と自信を持っておられるのですね?」
「熱田で魯坊丸様を嫌というほど見て来たからな! 大衆の支持というのは馬鹿にできん。どんな奇怪なことをしても支持さえあれば、民は付いてくる」
「そういうものですか?」
「熱田と津島を見ろ! 奇妙なことをはじめても、『あれは魯坊丸様がはじめたことです』と言えば、何でも通用してしまう」
「また、大袈裟な!」
「ともかく、信長様より魯坊丸様の支持が集まるのはよろしくない」
信長は民を憂い、奥方を大切にする愛妻家という噂を流した。
以前から信長は町を徘徊し、村で餅などを配っていたので簡単に信じられた。
あとは瓦版や噂話を流し、既成事実を重ねてゆくだけだ!
信長と帰蝶が一緒に視察に行く噂を流し、帰蝶が黒田を調略に行く噂を流した。
思惑通りに帰蝶を見送る者が沿道に溢れた。
愛妻家の信長ならきっと出てくると町の衆が信長の次の行動を読んでいたのは驚いた。
町の者も侮り難い。
こうして信長は沿道の大衆に見守られて熱田に入った。
◇◇◇
「しかし、水軍の訓練は久しぶりだな!」
「一ヶ月ぶりでないか?」
「水練は疲れるから嫌いだ!」
「疲れない訓練などない」
「そりゃ、そうだ!」
わははは、兵達が思い思いに呟いていた。
今日の訓練は緊張感に欠けていた。
愛する妻を持つ兵は信長に共感し、まだ一人身の者は見たこともない女性に憧れ、あるいは、帰蝶を慕う兵は助けにゆくことに感動を覚えていた。
肝心の信長は帰蝶のことを思い描いて、まったく気が付いていなかった。
熱田の湊では用意されているのが14人乗りの
櫂と櫂の間に盾を装備できる程度の防御力しかない、速度重視の小舟である。
100艘の小早に10人ずつ乗って船頭の指示に従って櫂で漕ぐ。
海を渡り、川を遡る。
中々の重労働だ!
「物頭、平島城の方角から狼煙が上がっております」
「何だと!?」
「狼煙の色は赤でございます!」
「赤だな! 判った。足軽大将様に聞いてくる。それまで待機だ!」
物頭らは足軽大将の元に走ってゆく。
それを見送った兵達が鳴海城の馬鹿共を罵った。
「気が利かねいな!」
「まったくだ!」
「奥方様をお守りするという大切な日に動くとは許せないぞ!」
「鳴海の奴らに鉄槌を!」
うおおぉぉぉぉ、兵達が妙に盛り上がっていた。
兵が狼煙を見た頃、信長もまた赤い狼煙を確認していた。
狼煙は平島城のみ、桜中村城や笠寺から上がっているように見えない。
「兵が集まっているのは大高方面のみか?」
「そのようでございます」
「太雲はいるか?」
「ここに控えております」
太雲の話では山口は笠寺の攻略を手控えて、星崎城と寺部城で守りを固めていると言う。
がちがちに守られると少数の笠寺勢では手も足も出せない。
そこで笠寺勢は戸部城を改修して使えるように手入れするが、それでも出て来ようとしないらしい。
「山口勢も戦いに慣れて、我々が援軍に向かうとすぐに城に引き返すようになっております」
「ふふふ、これではどちらが攻めているのか判らんな!」
「鳴海城も同じです」
「年貢を納めるという村を襲う訳にもいかん」
鳴海や大高の村は襲われることを恐れて年貢を納めると言ってきた。
「月に3度、演習と称して村を襲い、少数の鳴海勢を叩いたのが効果的でしたな!」
「村を襲うのは気が進まなかったがな!」
「虐殺をした訳ではございません。ただ、村の家を焼いただけです」
家を焼きながら住処が欲しいなら那古野に来いと叫んで火を付けただけであった。
田畑も焼いた。
村を襲われてから城から討って出た鳴海城の
繰り返すこと十数回、数少ない教吉の兵を叩き、捕えた捕虜を銭に交換してお返しする。
陣触れを出して人が集まる前に叩く戦い方は効果的だった。
度重なる敗戦と村人の流出で、2,000人は集められた鳴海城の総兵力は1,000人を切った。
大高、笠寺を合わせても3,000人に達しない。
本気になれば、鳴海城はすぐに落とせる。
それが信長の本音だ!
去年の鳴海、大高、笠寺から山口家に入った年貢はまったくない。
足りない分を今川家から借りて何とか凌いでいる。
年貢を納めるので村を焼かないで欲しいと懇願されたのだ。
年貢は7割だ!
城に一粒の米を入れさせるつもりもない。
「予定通り! 鳴海、大高、笠寺が今川のお荷物になっております」
「兵を送れば、兵糧が浪費され! 兵を送らねば、織田が好き勝手に暴れ回り、今川の支持がさがる」
「その通りでございます」
「狡猾な策だな!」
敵を懐まで引き入れて、敵に負担を強いる。
信長が頭を掻いた。
正面から戦おうとしない卑怯な策だ!
どうも儂の趣味ではない。
「殿は手段を選ばず、勝ちを拾いに行くと思っておりました」
「長門、勘違いするな! 儂は最善の手を打つだけだ!
「そうでございましたか! 納得しました」
「そうか、納得してくれたか!」
「しかし、大国ゆえに道の長さを利用して兵糧の輸送に負担を強いるのは慧眼だと思います」
「だから、賛同しておる」
やはり、赤い狼煙は平島城からしか上がって来ない。
兵糧がないならば、ある所から奪いに行くつもりか?
「もしかすると、我々がやったことを知多でやり返すつもりなのかもしれません」
「そうだとすると拙いな!」
「はい、知多は一色氏が衰退した後は群雄割拠しております。今川の脅威から親織田で治まっておりますが、どこかが崩れれば、再び、織田方と今川方に別れて争いをはじめます」
信長の元に軍奉行、足軽大将らが集まってきた。
皆、膝を付いて信長に頭を下げた。
「殿、如何なさいますか? 下知を下さい」
「海を渡り、平島に向かう! 信長は味方を見捨てん!」
「畏まりました」
一同が心を1つにして声を揃えると、一斉に動き出した。
「太雲、清州周辺、中島郡の城主にいつでも兵を出せるように指示を出せ!」
「万が一に備えるのですね!」
「そうだ! 津島にもいつでも舟を出せるように手配しておけ! 帰蝶に何かあれば、全軍を持って葉栗郡を制圧する」
「承知致しました。そう付け加えておきます」
「儂が戻るまで、何事もないことを祈るぞ!」
「おそらく、大丈夫かと!」
「ぬかせ! さて、山口の兵がどこに向かうか? 探っておけ!」
「問題ございません。すでに放っております」
「ふっ、流石だな!」
信長が小早に乗ると船頭の合図で櫂を漕いで海へと乗り出した。
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