閑話.がんばれ、お市ちゃんの大冒険(1)
天文22年 (1553年)2月23日。
お市は中根南城にやってくると、妹の里から
「
「畏まりました」
「お市ちゃん、私も」
「ならば、里も来るのじゃ」
中根南城に到着して、やっとのんびりできると喜んでいた小者は脱いだ草履を再び履くことになった。
熱田の湊に到着すると沢山の船がならんでいた。
舟人に聞いても誰も
「お市ちゃん、どうしよう。兄上のことを誰も知りません」
「任せるのじゃ」
「どこに行くの?」
「嘉平(
そう言って商家街に戻ると、大喜屋の看板が掛かっている店ののれんをくぐった。
「これはお市様に里じゃないか?」
「嘉平、聞きたいことがある」
「何でございましょう」
「魯兄じゃはもう発たれたのか?」
「今朝早く、ひっそりと『七里の渡し』の舟に乗られて出立されました」
「そうか、間に合わなかったか?」
「お見送りでしたか。それは残念でございました。京に変があったということ。急ぎ旅でございました」
「相判った。もう居らぬのじゃな」
ぐすん、涙を堪え、鼻水を啜った。
里と抱き合って置いて行かれたことを悲しんだ。
再び、湊に戻る。
湊から出てゆく舟をじっと眺めて寂しさに耐えた。
「わらわは魯兄じゃから嫌われてしもうたか?」
「兄上はお市ちゃんを嫌ったりしないよ」
「そう思うか?」
「絶対!」
「里、おぬしは優しいのじゃ」
「お市ちゃん」
手を搦めて、頭を付け合って慰める幼女二人を里の従者とお市の小者と女中が見守っていた。
愛らしい光景だと頬を緩めていた。
そのまま中根南城に戻ると、里と一緒に添い寝をして床に付いた。
ちゅんちゅんちゅんと雀の鳴き声にお市は目を覚ました。
もそりと起き出すと廊下に出て歩き出す。
庭に雀が舞い降りて来ていた。
まだ、日が昇るに少し早いまどろみの時間であった。
台所には白い煙が上がり、女中たちが朝の支度をはじめているのだろう。
いつもなら、まだ寝ている時間であった。
昨日は里と一緒に早く寝過ぎた。
台所の方から両手に握り飯を抱えた近習が歩いてきた。
「これは、これは、お市様でございませんか。おはようございます」
「おはようなのじゃ」
「随分と早起きでございますね?」
「今日は何故か、早く目が覚めてしまったのじゃ。そなたもか?」
「いいえ、これを食べてから一眠りする所でございます」
そういうと近習の者は両手から湯気がまだ立つ握り飯を見せた。
湯気が立つ握り飯ははじめて見た気がする。
とてもおいしそうだ。
「召し上がりますか?」
「よいのか?」
「どうぞ、今日は1つでも構いません」
「では、馳走になるのじゃ」
「どうぞ」
手に取ると本当に熱かった。
それをぱくりと口に含むと、塩気が利いてとてもおいしかった。
お市は目をぱちぱちさせてびっくりした。
白いご飯だけでこんなにおいしいとは思わなかった。
「でも、口の中も
「朝一番の飯はおいしいでしょう。某はこれが楽しみで、毎朝、台所に通っているのです」
「そうなのか?」
「はい」
近習の男はさわやかそうに微笑んだ。
どこかで見たと思ったのだが、すぐに思い出せなかった。
熱い内に食べた方がいいと言われたのでがんばって食べた。
しかも庭を見ながらだ。
おにぎりを食べ終わる頃に朝日がほんのりと立ち上がってきた。
「そうじゃ、思い出した。いつも魯兄じゃが使う居間の主じゃ」
「ははは、居間の主ですか?」
「いつも魯兄じゃを一人占めする悪い奴なのじゃ」
「申し訳ございません。ただ、居間の主ではございません。某はただの右筆の見習いでございます」
「いつも魯兄じゃと遊んで狡いのじゃ」
「本当に申し訳ございません」
「で、いつも何をしているのじゃ?」
お市ははじめて、
沢山の偉い人からの手紙を読んで返事を書かないといけないらしい。
それは本当に遠くの国もあるらしい。
「その
「南蛮の芋は何種類か手に入れましたが、その芋が手に入るともっと多くの人が助かると
「魯兄じゃは偉いのじゃ」
「大変に聡明であり、民草のことをいつも気にされております」
「わらわ達においしい物を食べさせる為に、そんな遠くの国の手紙を書いておったのか?」
「はい」
「それで
「判りません。頼んだ南蛮船はいつくるのかも判らないのです」
「それは難儀じゃのぉ」
「堺や博多に行ければ、宣教師に直接に頼むこともできるのにと
何でも堺の町にも南蛮船はほとんどやって来ない。
しかし、南蛮人の宣教師という者に頼むことができるらしい。
「で、魯兄じゃがいないのに、おぬしは何をやっているのじゃ?」
「むしろ、逆でございます」
「逆とは?」
「
「それは大変じゃな」
「しかし、本当に大変なのは今晩からです」
「それはどうしてじゃ? 魯兄じゃはおらんのであろう」
「居られないからです。今日、送られてくる積み荷の手紙は我々だけで処理しろと言われました。おそらく、朝まで『ああでもないこうでもない』と苦心することになるでしょう」
「がんばるのじゃ」
「ありがとうございます。それも明々後日の堺に向かう船が出るまでです」
「待て、堺へ船がでるのか?」
「はい、ご上洛の時に使われる様々な道具や贈り物を届けることになっております。ところが毎日のように贈り物を送る人が増えてゆき、追加の荷も増えているのです。さて、一眠りして昼からがんばります」
「そうか、がんばってくれ」
「では、部屋に戻らせて頂きます」
そう言うと、右筆の見習い近習が去っていった。
見送りながら、お市の目に光が宿っていた。
「
「ここにおります」
「今の話を聞いておったか?」
「聞いておりました。
「そうではない。堺に上洛する船があるのじゃ」
「それがどうかしましたか?」
「魯兄じゃはわらわを京に連れて行ってよいと言ってくれた」
「
「その平手の爺はもうおらぬ。つまり、行ってもよいのじゃ」
(屁理屈であった)
「しかし、信長様も駄目と言っておりましたが?」
「
(こちらも屁理屈であった)
「
「勝兄じゃはわらわのことなど興味がない。それに行くなとは言っておらん」
(凄い屁理屈であった)
「確かにそうでございますが?」
流石に
「
「その通りでございます」
「ならば、船はどうじゃ?」
「大湊で見つかれば、やはり連れ戻されるかと」
「見つからぬようにできぬのか?
お市のお願いが炸裂した。
3年前に尾張に連れて来られると、お市付きの女中として役目を貰った。
それ以来、ずっとお市に付き添っていた。
お市は下忍と見下すこともなく、こんな自分を頼りにしてくれた。
お市こそ、我が主と心に決めたのだ。
その主が必死に心の底からお願いしている。
「判りました。この
「聞いてくれるのか?」
「しかし、1つだけお約束下さい」
「なんじゃ」
「堺に随行するのは
「堺から京は無理か?」
「
「無理なのか?」
「申し訳ございません」
「相判った。大湊を出立した後に姿を現わし、
「ありがとうございます。お市様はしばらく中根南城に留まっていて下さい。すぐに調べて参ります」
「頼むのじゃ」
お市は自らの力で上洛することを決意した。
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