第79話 子槻の香り

「あの……明日、母に香水を供えに行こうと思います」

 子槻が顔を上げる。顔を合わせることに勇気がいったが、話に集中する。

「子槻さんがご両親に会われたということで、わたしも決心がつきました。『生きる』香りを供えに行きます」

 今まで、天野上原から戻ってきてから、行かなくてはと思いつつ、決心がつかなかった。

「ずっと、『涙香』で立ち止まっていました。わたしはこれからも香水を作り続けたいと、贖罪も幸せも全部含めて作り続けたいと、伝えに行きます」

 子槻がわずかに表情を曇らせたのが分かって、春子は慌てて手を振る。

「贖罪に縛られているわけではありません。何というか、説明するのが難しいのですが……縛られてやっているのではなくて、贖罪も、幸せも、全部の感情を作って、その作ることそのものがわたしが『生きる』ことなんです。息をするように、楽しいことも、つらいことも、罪も、幸せも香りにして生きていきたい。それができることで、したいことです」

 子槻は言葉をかみくだくように春子を見つめて、淡く、微笑んだ。

「ああ。きっと母上も喜ぶだろう」

「そう、思いますか?」

 すがるように、尋ねてしまった。

「もちろんだ。わたしも行ってよいだろうか? あいさつしたいのだ。人となって、ずっと春子を守っていくと、約束を果たせると」

 春子は頷いた。涙がこみ上げてきそうになって、まばたきをした。

「そういえば、ずっと渡そうと思っていたものがあるんです」

 茶色の瓶に、銀色のふた。オレンジのチョコレイトがけ、白檀の香り。

「何だろうか?」

「今持ってきます」

 春子は立ち上がって、ずっと引き出しの奥にしまったままだった瓶を持ってきた。子槻の隣に座って、さし出す。

「子槻さんに作った香水です」

 弾む心と、不安な心が半分半分だ。子槻が目を輝かせて瓶を受け取る。

「つけてもよいだろうか?」

 頷くと、子槻は銀のふたを取って、手首にスプレイを吹いた。

 細かな霧が、マンダリンの柔らかな酸っぱさを弾けさせる。カカオのように甘くて、紫檀のように心地よく、白檀のように落ち着いていて、けれど沈香のように突拍子もない。春子が共にすごした、子槻の香りだ。

 子槻が顔をほころばせて春子を振り向く。

「ありがとう。何てよい香りだ。わたしは君の作る香水が好きで好きでたまらない。これからもたくさんの香水を作っておくれ」

 きなこ色の髪が、白い花びらが月の光をまとって、自ら輝いているように見えた。

「はい」

 溶けてしまいそうな子槻の微笑みに負けないよう、春子は穏やかに微笑み返した。

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調香師少女と元神青年 涙の香水 有坂有花子 @mugiyu

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