第78話 わたしを全部あげるから

「それは、とうとう妻になってくれるということか? ついに!」

「ど、どうしてそうなるんですか?」

「わたしと一緒にいられるだけで幸せだと、今そう言ってくれたではないか」

 そういう意味で言ったつもりではなかったのだが、たしかに誤解をまねく表現だったかもしれない。

「そ、そういう意味では」

 瞬間、子槻の表情が悲しげにしぼむ。

「違うのか? ではどういう意味なのだ」

 春子は言葉につまる。子槻のことはもちろん嫌いではない。むしろ好きといっていい。けれどこれは恋情なのか? 生きていてほしいと思ったり、近くにいると気持ちが温かくなったり、微笑まれると胸がきゅっとなって微笑み返してしまったりすることが。

「その……で、でも子槻さんだってわたしを妻に妻にと言っていますが、親愛の情でしょう? 父のような……こ、恋ではなく」

 子槻は目をしばたたいて、縁側に手をついてうなだれた。

「何と……今までずっと伝わっていなかったのか……猛省せねば……」

 子槻は顔を上げて、引きしまった表情で春子にほんのわずか体を寄せてきた。春子は固まる。

「春子。わたしは春子のことを好いているし、親愛や父性などではない。これは、恋だ」

 体の横に、子槻の手がつかれる。

「わたしはひとりの男として、春子を好いていて、妻にしたい。春子はわたしのことを好いていないのか?」

 子槻の瞳はまっすぐで、けれどほんの少しだけ苦しそうで、首筋から頬へ熱が駆け上がってきた。子槻の瞳は暗闇の赤さんごのようで、よく見ると月明かりに赤い。月のうさぎもそういえば目が赤かったな、と思考がよく分からないところに逃避する。まつげが白っぽくて、ああ、まつげまできなこ色なのだと思った。

 視界の端で、白い花びらが落ちていく。この生ぬるい湯に包まれているような、そわそわした空気は、夜の桜のせいなのだろうか。

「ちょ、ちょっと、あの……ご、ごめんなさい、子槻さんのことは、嫌いではなく……でも、これが恋の好きなのかよく分からないのです……だから、もう少し時間をもらえませんか」

 こわごわ子槻を見つめると、子槻は真剣な表情から頬を緩めた。

「残念だけれど、もちろんだとも。わたしは春子のそばにいられることが幸せなのだ」

 子槻は流れるように春子の手を取って、自身の頬に当てた。触れた子槻の頬は、夜風で心地よく冷たい。

「いつか春子の心が決まったら、交換しよう。わたしを全部あげるから、春子を全部おくれ」

 風に、白い花びらが一斉に散る。子槻のとろけそうに柔らかな微笑に、花びらが舞いこむ。きなこ色の髪に、頬に当てられた春子の手に、触れていく。

 熱が、弾けた。

「し、しししし子槻さんの破廉恥!」

 春子は手を振りほどいて縁側を後ずさりしていた。

「な、なぜだ? 何がいけなかったのだ?」

「自分で考えてください!」

 かわいそうなほど狼狽する子槻に、春子は胸の前で手を握りしめて顔をそらした。多分、子槻に下心などない。本当に素直に、求婚の言葉として言っただけだろう。いかがわしく聞こえてしまう春子のほうがいかがわしいが、それより、自分自身に動揺していた。

 今までも散々妻に妻にと言われていたのに。本当だと、父性ではないと分かったからだろうか。

 どうして息苦しいくらい、鼓動が大きくて速いのだろう。

 手に触れられたからだ、と思おうとして、そういえば踊りのときはもっと密着していたから手だけでこんなに鼓動が速まるはずが、と落ち着こうと考えて逆効果になる。とにかく息を深く吸って、吐いて、子槻をうかがうと、「何がいけなかったのだ、言い方なのか? 婦人の心をつかむためには不勉強だったのか? こんなことなら玲にでも聞いておけばよかった……」と庭に向かってうなだれていた。

 何だか申し訳なくなってきて、鼓動が少しずつおさまってくる。

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