第77話 一緒にいられるだけで

「どうかされましたか」

 視線を受けた子槻が淡く笑みを浮かべる。清美は子槻を見つめて、頬を緩めた。

「いいえ。ごめんなさい、ぶしつけに。どこかでお会いしたことがあるような気がしたものだから」

 子槻が瞳を見開く。瞳が、少しだけ泣き出しそうに揺れる。

「春子さんとも仲睦まじいようだし」

「さすが夫人! お目が高い。春子はわたしのつ」

「子槻さん!」

 いつもの調子を取り戻した子槻を制して、春子は子槻とふたりで清美を見送った。


 店を閉めたあと、子槻が夕食を共にしていくことになった。義母がおかずを作りすぎてしまったらしい。

 義父母は子槻を気に入っているようだった。子槻の人懐こい性格のおかげもあるだろう。春子が見合いをすっぽかしたのは子槻に想いを寄せているからではないか、と思っているふしがある。

 夜もふけてきたので、泊まっていきなさいということになった。


 縁側に面する庭には、桜が花開いている。夕食後、春子は縁側に腰かけて散り始めの桜を見ていた。足音に振り向くと、子槻が立っていた。ねずみ色の長着だ。小間物屋で働くようになってからは、子槻は洋装でなく長着のほうが見慣れた姿となった。

「よいだろうか?」

 子槻が春子の隣をさしたので頷くと、子槻は嬉しそうに隣に座った。

「桜が美しいね」

 子槻が庭に視線を転じて目を細める。月が大きく、白く連なった花はもちろん、散っていく花びらまでよく見える。

「わたし、よく変わっていると言われますが、満開の桜より散り始めの桜のほうが好きなんです。風で一斉に花びらが降り注いでくるのが大好きで」

「ああ、なるほど。たしかに美しいね」

 子槻の笑顔に何となく気恥ずかしくなって、少しだけ視線を外す。

「実は、先日天野家に行ってきたのだ」

 春子は思わず視線を戻した。中つ野に戻ってきて以来、子槻が天野家を訪れるのは初めてだったはずだからだ。

「自分で消した記憶とはいえ、もしかしたらほんの欠片でも残っていないかと……やはり父上も母上も覚えていなかったが」

 子槻は、痛むように本当にわずかに瞳を細めた。

「ふたりの記憶は響生が亡くなったところで終わっているはずだから、それが本来の形で、そちらのほうが幸せだったのかもしれない。けれどこの体を返せないから、一緒の墓に行くことはできない。それが、とても親不孝なことをしてしまったと、心にのしかかっている。一生、忘れることなく省みていかなければいけない。せめてもの罪滅ぼしとして」

 春子は何と言えばいいのか分からなかった。迷って、ふわりと思いが浮かび上がってきた。

「軽々しくは言えませんが、それでも、わたしは今ここに子槻さんがいてくれて、嬉しいです」

 子槻の表情が泣き出しそうに震えて、微笑に変わる。けれど再びしぼんだ。

「ありがとう。けれど、わたしは君を妻にしたいのだが……いや、必ずするのだが、わたしにはもう立場もお金もないから、君を幸せにしてあげられないかもしれない」

 突然飛んだ話に、春子は首をかしげた。必ず子槻の妻になるかどうかはさておき、考える。

「ええと……幸せに立場もお金も関係ないと思いますが……」

「けれど貧しければ君に不自由させてしまうだろう。だから人の体を探すときに、お金に困らないという条件も加えたのだ。結果、時間はかかってしまったが、見つかった」

「だから商事の天野家を選んだんですか?」

「うむ」と頷く子槻に、春子は心底驚いた。そこまで考えているとは思わなかったのだ。本当にまっすぐで一生懸命で、春子のために手を尽くしてくれていたのだ。

「ええと。わたしは貧しかったとしても、一緒になったなら、一緒にいられるだけで幸せです。苦労しても、ふたりなら幸せです」

 子槻が目を見開いていく。何か変なことを言っただろうかと思っているうちに、子槻の瞳が輝き出す。

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