夜桜パフュウマア

第76話 幸せなのだ

 花の香はなくとも、暖かい風には春の匂いがする。

 植木鉢、座布団、白粉の缶。見慣れた小間物屋の店内だ。ひとつだけ違うのは。

「ありがとうございます。またどうぞよろしく」

 春子のかたわらで共にお辞儀をするきなこ色の髪。顔を上げた子槻は、春子のほうを見て、春の日だまりのように微笑んだ。


 天野上原から戻ってきて、子槻は玲の家に下宿することになった。玲にこっぴどく怒られたのは言うまでもない。子槻に関する記憶は皆から消えていて、天野家には戻れなかった。

 そうして一下宿人となった子槻は、玲の紹介ということで春子の家の小間物屋で働くことになったのだ。

 春子の縁談は破談となった。天野上原での香水作りに時間がかかりすぎて、見合いをすっぽかす形になってしまったからだ。もちろん平身低頭して謝罪した。相手は傷心で、相手の父親に必死に詫びた。けれどどうやら父親はあまり乗り気ではなかったらしい。息子の熱意におされてはからったが、急な話だったことだし、と謝罪を受け入れてもらえた。

 義父母には「神社に最後に香水を供えに行きたくて、お参りしていたら時間をすぎてしまった」とひたすら謝った。義父母は顔を見合わせて、「約束を破るのはよくないから、せめて事前に言いなさい」と困惑しながらも許してくれた。無理にすすめた縁談がそこまで嫌だったのかと思われたらしい。本当に申し訳ないかぎりで、謝ることしかできなかった。

 そういったことを経て、春子は小間物屋の家に戻り、子槻が隣で働くようになった。季節は秋から春になっていた。

 お客を見送ったあとも春子を見つめて微笑み続ける子槻に、春子は目を泳がせる。

「な、何ですか?」

「いいや。春子はずっと見つめていても飽きないものだから。幸せなのだ」

 歯の浮くようなことを言われてしまい、どぎまぎするが、子槻の場合本心なのだ。「でも、ずっと見られていたらお客様が来たとき困りますし」と言おうとした矢先、店の前の道に人力車が止まった。下りてきたのは藤の着物に髪を結い上げた婦人と、お付きの女中だった。春子は息をのむ。

 水谷男爵夫人、清美が柔和な笑みで春子の前に立っていた。

「お久しぶりね」

 清美の声で春子は我に返る。

「お久しぶりです、ようこそいらっしゃいませ!」

 小間物屋に戻ってきてから、春子は店先に作った香水を置かせてもらっていた。そうして自分で令嬢たちに手紙を書いたり、玲が広めてくれたりしたおかげで、ぽつぽつと以前のお客が訪れてくれるようになったのだ。少量ながら、オオダアメイドも受けるようになった。

 清美がにこやかに、洗練された所作で店内へ入ってくる。

「ここが新しいお店なの? まあ、何でもそろっているのね」

「はい、何でも豊富に! 香水もこちらに。オオダアメイドも受けております」

 店内を見渡した清美が、春子の隣で視線を止める。子槻が、穏やかな目で清美を見ていた。

「こちらの方は?」

「ああえっと」

「天野子槻と申します。はじめまして」

 言葉を引き継いだ子槻の目が、ほんのわずか、寂しそうに見えた。

 清美はでき上がっている香水を買い求めてくれ、またオオダアメイドを頼みに来てくれるという。

「春子、君は包んでおいで」

 勘定は子槻が引き受けてくれたので、春子は薄紫の香水瓶を和紙で丁寧に包んで、千代紙の貼られた箱に入れた。すみれに似た香りの香水だ。清美にきっと似合うことだろう。店の出口に立って、清美へ箱を渡す。

「ありがとうございました。またぜひお越しください」

「ええ。つけるのが楽しみ。お店がなくなってしまって、本当に残念に思っていたの。また来られるのが嬉しいわ」

 そうして清美はつと春子の隣へ視線を移した。

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