第75話 『生きる』香

 牡丹狐神の声が空気を引きしめる。

「よい香りであった」

 立ち上がるのすらつらい。ひざをすって台のところまで戻らなくては。そうして、耳を疑った。牡丹狐神を凝視する。

 牡丹狐神は憎しみも怒りもない、ただ畏怖を感じる神の目で、春子を見ていた。

「よい香りであった。認めよう。お前の『生きる』香。見事であった」

 よく、分からなかった。じわじわと意味が染みこんできて、力が抜けて倒れそうになった。

「本当ですか? 本当に……」

 牡丹狐神は居心地が悪そうにそっぽを向く。

「わたしはうそはつかん」

 板の間に崩れるように手をつくと、子槻が駆け寄ってきて体を支えてくれた。

「ありがとう、ございます……感謝します、牡丹狐神」

 正座したひざの前に手をそろえて、深く頭を下げた。顔を上げても、牡丹狐神はついとそっぽを向いたままだった。

「そこの鈍ねずみと共に中つ野へ戻るがよかろう。もう二度とここへ来るな」

「牡丹」

 子槻が牡丹狐神へ向けて微笑みかける。

「ありがとう」

 牡丹狐神の表情は変わらず動かない。

「牡丹狐神。わたしはまたお会いしたく存じます。ぜひ、また香水を作りにいらしてください。精いっぱい、お作りします」

 牡丹狐神は口をひらかなかったが、そのすねた横顔は人ならざる美しさで、人の子のように、愛らしかった。


 鳥居の、木々の向こうの空は白み始めていた。白花色のうろこ雲に橙と黄が混ざり合って、薄紫になっていた。もう息が苦しくない。しっとりと重い森の空気を、春子は胸いっぱいに吸いこむ。目の前には子槻と、かたわらにこのりが。まごうことなき中つ野の、ねずみの社だ。

「体は、平気ですか」

 問うと、子槻は夢から覚めたように悲痛な顔をした。

「わたしより君だ。君はどうしてそんな無茶ばかり……」

 そうして、思い出したように目を伏せた。

「そんなことを言える立場ではなかった。わたしは、君に謝らないと……」

「ええ。謝ってください。勝手にみんなの記憶を消して、何も言わずにいなくなって、どれだけみんな心配したと思ってるんですか! 謝ってください! わたしとみなさんに」

「そ、そちらは」

「謝ってください」

 うろたえる子槻に春子は有無を言わせずたたみかけた。子槻は叱られた子どものようにしおれて、春子を見つめた。

「分かった。もうしない。黙っていなくなったりしない。皆にしたこと、君にしたことは、本当にすべて、申し訳なかった」

 しおれた子槻を見ていたら、心が落ち着いて、もうひとつの感情が浮かび上がってきた。

「よかったです。戻ってこられて。無事で」

 素直にそう思えた。気が抜けたのか、呼応するように静かに涙があふれてきた。子槻があからさまに慌て出す。

「すまない、春子、もう絶対に、絶対にしないから」

 子槻があたふたと手を動かすが、どうしていいのか分からない様子だ。

「もういいです。二度としないでくれれば」

 春子自身もぱらぱらと涙が勝手に落ちてくる次第で、子槻を責めているわけではなく、止まらなかった。

 子槻はおろおろと視線をさまよわせて、意を決したように春子を見つめた。そうして一歩近付いてきて、腕を、回された。

 何をされたのかよく分からなくて、香った白檀と毛織物で、抱きしめられているのだと分かった。

 またたく間に頬に熱が上る。こんな外で、と思ったが森の中なので人はいない。と思いきや、このりが控えていたではないか! 慌てて視線をやると、距離をおいて立っていたこのりは、あさってのほうを向いていた。何て素晴らしい女中なのだとつくづく感心したが、問題はそこではなかった。

「泣かないでおくれ」

 離してほしい、と子槻に伝えようとしたそのとき、言われた。

「わたしは君に言われたように人の気持ちがよく分からないし、元が動物であるから泣くというのが完璧には分からないのだ。けれどわたしは、君が泣いていると苦しい。君が健やかでいられないのが、一番つらく悲しい」

 背中を、ゆっくりと叩かれた。

「無事でいてくれて、本当に、本当によかった」

 昔、槻子神にも同じように背中を叩かれたことを、思い出した。

「はい。子槻さんも一緒で、よかった。おかえりなさい」

 言葉を追いかけるように、涙があふれてきた。薄紫の空に黄が広がって、けやきの一葉一葉を朱く光らせていた。

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