第74話 命より重い香

 とっさに口をついてしまったとはいえ、子槻本人がいる前で言っていいことではなかった。けれどどんなに口を塞いでも後の祭りだ。

「牡丹……お前、わたしに焦がれていたのか? お前が? わたしに?」

 振り返ると、台のかたわらに座る子槻が呆然と見つめていた。

(子槻さん黙って! 本当に人の気持ちが分からない!)

 叫びたかったが、余計に事態を悪化させそうなので声が出せない。ああいや、この場合人ではないので女心だろうか、とどうでもいい方向へ思考が滑り始める。

「お前はわたしにいつも辛辣で、ずっとうとまれているのだと」

(あああ子槻さん!)

「うるさい! この鈍ねずみ!」

 春子が頭の中で頭を抱える前に、怒号が響いていた。向き直ると、切り裂かれそうに張りつめた雰囲気はなく、信じがたいといった面持ちで牡丹狐神が顔を真っ赤にして唇をかんでいた。「鈍ねずみ……」と子槻が呟くのが聞こえる。

「お前など慕っておらん! 人となると、神を捨ててここを去るという決意までしたから見送ってやったのだ。それがこうも簡単に戻ってきて、あまつさえ死のうとするような者を好きなわけがなかろう! そんな半端な気持ちで戻ってくる者など神ではない、腹立たしい!」

 牡丹狐神は一息に言って、肩で息をついた。そうして弱々しく顔を歪める。

「腹立たしい。簡単に戻ってくる槻子神も、求婚を受け入れる気もないのに槻子神を待たせておく娘も、こんな……情けない男に心を移してしまった、自分自身も」

 牡丹狐神は顔を伏せた。黒く長い髪が薄紅の頬を隠して、音もなく、涙の粒があごの先から落ちた。春子は狼狽する。何と声をかけていいのか、何と言っても傷付けてしまう気がする。

「牡丹よ。お前の気持ちに気付かなかったのは詫びよう。けれどわたしには春」

「子槻さん黙っていてください!」

「子槻さまお静かに願います」

 子槻の言葉を春子とこのりが全力でかき消す。

 子槻に喋らせてはいけない。春子は牡丹狐神に向き合って、何とか言葉を探し出す。

「牡丹狐神。わたしが余計なことを口にしてしまって、申し訳ありません」

 時すでに遅し、謝ることしかできないが、心が激しく痛む。けれど伝えなければ。

「先ほどの問い、どうして子槻さんを連れ戻したいのか。わたしは、子槻さんに恋情を持っていないのかもしれません。よく、分かりません。けれど死んでほしくない。絶対に生きていてほしい。わたしのことなど関係なく、子槻さんは子槻さんとして生きていてほしいのです」

 春子はずっとひざに抱いていた瓶を、牡丹狐神へさし出す。

「わたしの命では価値がないのなら、この香で今一度考えていただけませんか。これはわたしの命より重い。生きてきたことと、生きていくことそのものです。罪も、償いも、感謝も、幸せも、全部」

 牡丹狐神は顔を伏せていた。やはり、だめなのか。心が重く沈むのに引っ張られて体が崩れそうになる。最初の約束どおり、牡丹狐神を心変わりさせる香りをもう一度作らなければ。体はもたないかもしれない。もうやめたいと心が叫ぶけれど、次ならきっと。

 牡丹狐神が顔を上げた。伏せたまつげに、薄く色のついた頬に涙の欠片があって、人ならざる美しさだった。

 牡丹狐神は真っ黒い瞳をはっきりと春子に向ける。

「命より重い香など、認めぬ」

 さらに追い打ちをかけられると、体がより一層重くなった。

「命はひとつしかないが、香りは何度でも作れる。この香はただの香だ」

 言葉がのしかかってきて、春子は体を引きずって立ち上がろうとした。

「ゆえに」

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