第73話 わたしのすべて
春子は頷いて、混ぜ合わせた香料の香りを確かめた。
集中しろ。自分も苦しい。子槻も苦しい。長引くほど苦しい。最悪の状態で、最高の香を。
ミドルノオトはやはり花だろうか。香料のなかには、中つ野では採れない、『桜』の精油もあったと思うが。迷って、自分の気持ちの中をよく探って、香りに変換する。そうして、選んだ香料を量に注意しながら、混ぜ合わせ、かぐ。
トップノオトは目が覚めるような香りで、ガルバナムを入れた。そしてオレンジ、白檀。最後に、初めてかぐ、天野上原の精油を入れた。
「でき、ました」
迷いこんだ道から、二度と抜け出せないかと思った。どれだけやっても完成しないかと思った。けれど、できた。本当は香りをなじませるために一日は置いておきたい。でもそんな時間はない。
瓶を持って、立ち上がって、よろめかないように、台のかたわらに座る牡丹狐神のもとへ歩んだ。座って、和紙につけた香りをさし出す。
「どうぞ」
牡丹狐神は冷たさと憤りをこめた目をして、和紙を受け取った。顔へ近付けて、かぐ。
「わたしは、ずっと幸せになってはいけないと思っていました」
それは、ただの独白だった。けれど、言わなければならなかった。
「母はきっとわたしのことを許してくれるでしょう。けれど、本人に聞けない以上、永久に分かりません。もっと生きていたかったと、恨んでいるかもしれません。だから罪を忘れないように、償っていかなくてはと、自分が忘れてしまったら誰もわたしを罰せないのだからと、ひとり忘れて幸せになってはいけないと思っていました。けれど願ってしまいました。自分のわがままを叶えてしまったのに、もっと幸せになりたいと」
ベエスノオトはオオクモスとパチュリをごく少量、白檀で根底に流れる森のような重さを表現した。ミドルノオトはバラとトンカビインズ。桜の香りだ。トップノオトは鮮烈な緑のごときガルバナム、オレンジ。
そうして唯一、中つ野では採れない精油をひとつだけ入れた。
けやきだ。
「香水を作りたい。母はわたしの香水がほしいと言ってくれました。香りを作ると、楽しいことも、悲しいことも、泣きたいことも、幸せなことも思い出せます。だからわたしはずっと香水を作って、全部、忘れないようにと、決めました。香りを作ることが、償うこと、幸せになること、わたしのすべてです。この香りは、今までわたしを支えてくれた人、子槻さん、母へ伝える香りです」
驚くほど強い緑のガルバナムが、甘いオレンジが香る。苔と土の重さをまとっても、桜は白檀に包まれて香る。
そうして、中つ野とはまったく違う、雨降る前の香りに似たけやきが、ある。
「『わたしは、生きます』と」
贖罪にも何もなっていない。けれど、これが、今一番強く強く思って、作りたいものだったのだ。
春子の、すべてだ。
牡丹狐神は眉根を寄せて鋭く瞳を細めて、和紙を顔から離した。
「娘。なぜ槻子神を連れ帰りたい」
牡丹狐神の表情と、根本的な質問に、とっさに言葉が出なかった。
「なぜ、と……ここにいたら死んでしまいますし、わたしはまだ子槻さんに謝ってもらうことがあるので……」
牡丹狐神が和紙を投げ捨てる。
「なぜだ、なぜここまでする」
その顔には、やり場のない怒りのようなものが張りついていた。
「お前は槻子神を好いていないのだろう、求婚を受け入れないのだろう、それなのになぜ!」
春子は戸惑った。一番強い思いをこめた香りとはいえ、やはり牡丹狐神を心変わりさせる香りにはならなかったのだ。そう問われても仕方のないことなのかもしれない。
「たしかに、恋情とは違うかもしれません。けれど人として」
言った瞬間、素直に何かが落ちてきた。
「もしかして子槻さんのことをお慕いしているのですか?」
今までの、何となく春子にとげとげしかったり、子槻に当たるわりには気恥ずかしそうにしていたり、違和感がようやくつながったのだ。
牡丹狐神は目を見開いて、ぶわりと頬を紅潮させた。春子は喉をつまらせる。
(何で言っちゃったの! わたしのばか!)
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