第72話 そばに

 何を作るのか。見たこともない香料が山ほどある。蓮、雪柳、風、雲、沈丁花。蓮、雪柳、沈丁花は精油がとれないはずだ。少なくとも中つ野では。風や雲にいたっては想像もつかない。

 中つ野にある花たちの香料は、たしかにくっきりとその香りがした。風は、川辺で乾き始めた草のあいだを吹き抜けた空気の香りがした。雲は雨の日のような湿った、けれど不思議なほど軽やかな香りがした。

 牡丹狐神が心を変えてくれる香りが、分からない。気付くと、眠気と疲労で思考が止まっている。作りたいのに、分からない。何となく、牡丹狐神の態度には違和感がある気がする。ずっと、引っかかっている。

 けれど、分からないのだ。

「春子」

 不意の声に体が跳ねる。振り向くと、台のかたわらに座っていた子槻が、青白い顔で、思いを決めた表情で、見つめていた。立ち上がって、春子の隣へ正座した。

「春子。君にわたしを救う義務などない。わたしは君に最低なことをした」

「それは、分かっています。けれどわたしは子槻さんを連れ戻したいんです」

 この期におよんで何を言っているのだと思った。

 痛々しくも、強い何かを秘めていた子槻の目が、笑った。

「だから。春子が今一番作りたい、好きな香りを作ればよい。わたしを連れ戻すからなどと悩むことはない。強く、作りたい香を作るのだ。自由に」

 霧が、風に払われるようだった。

 そうだ。牡丹狐神を心変わりさせるような香りなど、考えても分からない。分からないなら、自分の全力を尽くした香を作るべきだ。神をうならせる、すべての力を出しきった香を。

「分かり、ました」

 心は決まった。あとは何を作るかだ。中つ野にはない香料もたくさんある。今、何を一番作りたい? 眠気で、額のあたりがもやがかっていて重い。息が苦しい。思考が止まっている。今一番強い思いは何だ。子槻を連れ戻したい? 牡丹狐神を心変わりさせなければ? 違う。それは、きっと。

『春子の作った、香水がほしいわ』

 水滴がみなもに落ちるように、広がった。同時に、あふれてくる。痛みと、自責と、けれど泣きそうに強い思いが。

 作りたいものが、分かった。何の香料を使えば表現できるのか。根底は暗く、綺麗事ではなく、希望。

 今までは桜やオレンジのチョコレイトがけ、作りたい人の雰囲気など、元となるものがあった。けれど作ろうとしているのは自分の内側だ。冷静に見られない。

 根底を成すべきベエスノオトは、苔のオオクモスがいいだろうか。あとは土のようなパチュリ。どちらも、希釈したうえでごく少量。トップノオトは希望となるような、はっとする鮮やかな香りがいい。レモン? 薄荷? それとも天野上原にしかない香料を使ってみるか。

 レモンを入れてみる。何だか違う気がして、捨ててを繰り返す。思考が気付いたら切れぎれになっている。まとまらない。呼吸が苦しいせいもあって、意識が、体がもう倒れてしまいたいと苦痛を訴えている。手が止まってしまう。

「春子」

 柔らかな声に顔を上げた。かたわらの子槻が、微笑んでいた。頬に血の気はないのに、目は赤くて、それでも何でもないように微笑んでいた。香料を混ぜ合わせた瓶を握ったまま止まっていた手に、手を重ねられる。

「槻子神。手出しするようなら即刻斬る」

 台のそばに座っていた牡丹狐神が、体の横に置いた刀の柄に手をかけていた。その面は、凍るように、貫くように激しい。

「わたしは春子と共にあるだけだ。春子だけに責任を背負わせてのうのうと座っているなど、自分が許せない。ならばせめて、そばに」

 牡丹狐神は目を見開いて、何かをこらえるように唇を震わせたが、動かなかった。かたわらの子槻を見ると、微笑んで、分からないくらいに小さく手を握られて、離された。

(どうして)

 子槻は春子を信じてくれている。春子よりずっと具合が悪いのに。死んでしまうかもしれないのに。

 けれど子槻はそうだった。ずっと春子を信じていてくれた。ずっとずっと、最初から。出会ったときから。

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