第71話 御心を変える香り
「茶番はいらぬ。神と対等に取引できる立場などと思い上がるな。そこまで死にたいのなら、今ここで槻子神もろとも殺してやろう」
牡丹狐神は跳躍して床の間の刀を取ると、さやを捨てて春子へ踏みこんだ。刃先が、春子へ。
速すぎて感情が追いつかなかった。目の前にえび茶の影が入りこんできて、澄んだ音と共に牡丹狐神の刀が上へ弾ける。かたわらに座っていた子槻が、短刀で牡丹狐神の刀を振り払ったのだ。
牡丹狐神は目を見開いて、臆した様子もなく刀を振り下ろす。刃がぶつかる強い音がして、春子は身が縮む。子槻が、短刀で刀を受け止めている。互いに力をこめているのか、刃の震える音がする。ようやくやってきた恐怖で、体が動かない。声が出ない。
「牡丹よ、神が人を殺めようなど、何たる振るまいだ」
子槻の声はかすれている。体が蝕まれているのだ。
牡丹狐神は鼻で笑う。
「我々は荒魂だ。そんなことも忘れたのか。死にたがっているのなら殺すのは情けであろう」
牡丹狐神が刀を緩めて、胴なぎに振るう。子槻は辛くも受け止めて刀を弾く。呼吸が荒い。春子をかばいながらでは勝ち目などない。
「春さま」
このりが駆け寄ってきて、春子の肩に手を置く。
「牡丹狐神、おやめください! そんな、あなたさまらしからぬこと」
牡丹狐神は聞こえていないかのように刀を振るい続ける。春子と目が合って、気迫の表情で刀が振り下ろされるのを、子槻がすんでのところで弾き飛ばす。
何とかして、止めなければ。けれど、どうやって。飛びこんでいくほどの武芸はない。それ以前に手足は震えて使い物にならない。どうすれば、止められるのか。できることは。
不意に、つながった。
「お待ちください!」
こんなへたりこんだ格好で間抜け極まりなかったが、声を張った。懐から透明な瓶を引っ張り出して、つき出す。
「『涙香』です。神をも殺す香りです。かげば、神でさえも死んでしまいます。おやめくださらないなら、今ここで振りかけます」
牡丹狐神は振り出そうとしていた刀を止めた。けれど、冷たく、とても美しく、嘲笑した。
「それが真なら、わたしともども皆死ぬだろうな。それでもよければ開けてみるがよい」
そのとおりだった。春子は自分の浅はかさに自分をひっぱたきたくなった。
牡丹狐神は刀の切っ先を子槻へ向けたまま、春子へ侮蔑のまなざしを送る。
「娘よ。そこまでこやつをかばい立てするのなら、香りとやらでわたしを止めてみればよかろう。お前の命よりよっぽど価値がある。遊戯だ。わたしがこやつを中つ野へ戻してもよいと心変わりする香りを作ってみせよ」
それは、と声がつまった。どんなに素晴らしい香りを作っても、牡丹狐神が否と言えばそれで終わりだ。國彦のときと同じだ。
「わたしはうそはつかん。本当に心変わりするほどの香りを作ったなら、心のままに言う。神として。納得のいくまで何度でも作るがよい。いつかはたどり着けよう。ただし、それまで体がもてばの話だがな」
牡丹狐神が春子の表情を読んだのか、冷ややかにつなげる。
そうだ。牡丹狐神がうそをつかず、心変わりする香りができたとしても、春子の体がもたないかもしれないのだ。今でも、寝ていないことも相まって、息が苦しく倒れこみたいのを気力だけで抑えている。長くここにいるぶん、子槻のほうがより悪いだろう。
やる、やらないではない。できない、でもない。
必ず作るしかないのだ。
「分かりました。牡丹狐神の御心を変える香りを、お作りいたします」
「春子」
刀を向けられた子槻が弱々しく叫ぶ。
「よかろう。必要なものは運ばせる」
牡丹狐神は特に感慨もなく刀を引いて、おさめた。
すぐに神使の少女たちがやって来て、春子に必要なものを尋ねてくる。板の間に背の低い台が運ばれ、その上に瓶に入った液体が置かれる。札には『蓮』、『風』、『槻』。香料だ。希釈や混ぜ合わせるために使う透明な瓶がたくさん、墨、和紙、はかり、ガラスの混ぜ棒が並べられた。牡丹狐神、子槻がかたわらに座るなか、春子は涙香を懐へおさめて、台へ正座する。
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