第70話 自らの命で

「全部、思い出しました。あなたがねずみの神様だということも、幼いころわたしと会っていたことも、涙香を預けたことも、妻として迎えに来るという約束も、全部。だから、帰りましょう。一緒に」

 子槻は春子の目を見て、うつむいた。

「消した記憶は戻らない。ゆえにわたしは帰る場所がない。君を妻にするという約束は、果たせない」

 消した記憶は戻らない、というのは当たり前のようで衝撃的だった。帰れば、すべて元どおりになると思っていたからだ。

 けれど、それでも。

「綾部さまは子槻さんを叱りたいと言っていました。元の場所に戻れなくても、全部元どおりにならなくても、わたしはただ、帰ってきてほしい」

 子槻の瞳が揺れて、苦しげに細められた。

「それは許さない」

 空気が切り裂かれたように張りつめた。見ると、開け放たれたままだった障子の向こう、廊下に、見覚えのある女性が立っていた。赤い牡丹に流水の模様が入った着物、金箔のひし形模様の帯、きつねの帯留。白い面の横にのぞく赤いリボンに、腰まである黒くまっすぐな髪。

 春子に香水を依頼した、刀のような空気をまとう令嬢だった。

「牡丹……聞いていたのか」

 子槻が驚いたふうもなく呟く。令嬢は鋭い目のまま、板の間へ歩んでくる。

「槻子神、もはや神でも人でもない半端者よ。戻ることは許さぬ。神の立場を汚した罪を償って、ここで死ね」

 令嬢の目は冷たく、同時に怒りを抑えこんでいるようだった。春子は戸惑う。

「あなたも、神様だったのですか?」

「牡丹狐神(ぼたんきつねのかみ)、四柱のうちの一柱であるお方であらせられます」

 壁際のこのりが控えめに発する。

 牡丹狐神は歩んできて、座ったままの子槻を見下ろした。

「槻子神はもはや神ではない。三柱だ。あげく人にもなりきれず逃げ帰ってくるざまだ。これ以上恥をさらすことは許さぬ。ここで朽ち果てろ」

「それは……お待ちください、そんな、どうして」

 春子が割って入ると、牡丹狐神のひやりとした、苛立ちを含んだまなざしに射抜かれる。

「娘。なぜこやつを連れ戻す。こやつがどうなろうとお前には関係なかろう」

 神の問題に口を出すなと言われたら、そうだろう。神のしきたりなど分からない。

 けれど、それでも。

「子槻さんは人となってわたしと共にあるという約束を守ってくれました。神という立場を捨ててまで。だから、失うわけにはいかないのです」

 春子は神の畏れを体現したような、牡丹狐神の冷たく重い視線を受け止めて、腹に力を入れた。

 本当は、言いたくない。喉が、つかえる。

「だから、到底足りないのは承知ですが、わたしの……命と引き換えに子槻さんを中つ野に戻してください」

 一拍、静まって、「春子!」と声が空気を裂く。

「何度言えば分かるのだ大ばかもの! なぜ君は自分の命を粗末に扱おうとするのだ!」

「粗末になどしていません!」

 振り向いて、血相を変えた子槻の言葉を遮る。

「わたしは、本当は、死にたくなどありません」

 口にして、死を想像すると、体の奥から絶望がこみ上げる。

「今まで、母を殺してしまった罪から、命を絶ちたくなるときがありました。けれど怖くて、誰かの手にかかるならと思ってもやっぱり怖くて、できませんでした。でもわたしにさし出せるものは命くらいしかありません。本当は嫌です。ひとりぼっちになってしまったと思ったけれど、おじさんおばさんに育ててもらって、子槻さんと出会って、お店をやらせてもらえて、とても幸せで、全部思い出して、これ以上望んではいけないと思ったのに、わたしは……」

 息がつまって、声を切った。

「わたしは、死にたく、ない。もっと生きていたい」

 見つめた子槻は、痛ましさをこらえるような瞳をしていた。

「娘よ」

 牡丹狐神が春子を見下ろす。その目は冷たくて、けれど激情を抑えこんでいるようでもあった。

「母を殺した償いに、自らの命で槻子神を救ってほしいというのか……美しいことだ。美しすぎて反吐が出る」

 冷たい目に、怒りが揺らめく。

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