けやきアブソリュウト
第69話 ここにいる
草の香をいっぱいに含んだ風が流れる。
もやが晴れた先、紺色の野が広がっていた。山中の社ではない。ほんの少し欠けた月は先ほどまで見ていたのと同じ形だが、大きさがまったく違う。空を占拠するほどの月は、明かりなどいらないほどだった。薄く、香をたいたようにもやが流れていく。幽遠な景色に放心する心とは裏腹に、息は苦しく、体は重い。
まぎれもない、天野上原だ。
子槻がどこにいるのか、分からない。どうすれば捜し出せる? あたりは一面草だけで、建物も明かりも見当たらない。当てもなく歩けば体力を奪われてしまう。
けれど歩くしか方法がない。
春子は直感で月のほうへ向かって歩き始めた。立ち止まっていても、てんで見当違いの方向に歩いていても、息は苦しく、体は侵されていくのは同じだ。
夜なのに、鳥が飛んでいた。こうもりとは動きが違う。白い月を、黒い翼が横切っていく。
どれくらい歩いただろう。そういえばもう数日寝ていないのだった、と変わらない野を前に疲労が押し寄せてくる。思いきって方向転換したほうがいいのだろうか、と回らない頭で考えたとき、小さな明かりが見えた。幻覚かと目をこらすと、段々近付いて大きくなってくる。それが人の形になって、駆けてくる。
「春さま!」
見覚えのある少女が、行灯を持って飛びこんできた。
「このり、ちゃん」
「ああ、思い出してくださったのですね。からすが人が迷いこんできたと知らせに来たのです」
このりは春子を見上げて、泣き出さんばかりの顔をしていた。
「よくぞ来てくださいました。けれど、人は長くここにとどまると死んでしまいます。体がおつらいのを承知で、お願い申し上げます。子槻さまを助けてください。今の子槻さまは人の身です。元は神でもこのままでは死んでしまいます」
春子はやはり間違っていなかったと、頷いた。
「ええ。子槻さんはここにいるのでしょう? そのために来たんだから、連れ戻すよ。わたし、怒ってるの」
笑ってみせると、このりもつられたようにかすかに笑顔を見せてくれた。
「こちらへ」
このりに先導されて、春子は野を歩き出した。
何本もの朱塗りの柱を通り抜けて、障子の前へ。
「失礼いたします」
このりがひらいた障子の先は、見事なけやきの板張りの床、床の間に飾られた何振りもの刀。
その中央に、えび茶の背広姿の子槻が、背を向けて正座していた。
春子は息がつまりそうになりながら、口をひらく。
「子槻さん」
背広の肩が跳ねる。振り返ったその顔は、きなこ色の髪よりも青白く、見開かれた目は元の赤より、何日も寝ていないかのように充血していた。
生気を奪われているのはあきらかだった。けれど。
「ばか!」
叫んでいた。
「どうして、どうして何も言わずに勝手にいなくなるんですか! 綾部さまがとても心配していました。わたしにだって、ちゃんと謝ると言ったじゃないですか!」
本当に生きていてくれたということと、それに伴う感情があふれてきて、止まらない。
子槻は呆然としたまま、春子を見つめる。
「なぜ、ここに……」
「なぜ、ではありません! あなたを連れ戻しに来たんです!」
「どうして……君は、わたしがいなくなれば幸せになれると、そう言ったのに……」
そんなこと言っていない、ととっさに反論しそうになったが、たしかにそういうやりとりがあった。けれどそれは子槻にも自分にも未練を残さないようにするためだ。店を閉めたなら、春子はもう子槻と関わることはできないのだから。
けれど子槻は本当に言葉を言葉どおり受け取っている。素直すぎる。
「それは、お店を閉めるから……だからって本当に消える人がありますか! しかも綾部さまの記憶を消さなかったから、結局わたしに見つけられているじゃないですか。あなたは、本当に人の気持ちが分からない」
子槻は傷付いたように瞳を伏せた。春子は自分のことを棚に上げすぎているのは分かっていたが、今は仕方がない。子槻の前に歩んでいって、正面に正座した。
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