第68話 首を洗って待っていて
春子がしたことを、母は許してくれるかもしれない。けれど本当はもっと生きていたかったかもしれない。どう思っていたかは、もう二度と聞けないのだ。苦しまずに旅立てたかもしれない、などと自分をかばうことは絶対に許されなかった。春子は人だ。神ではない。人の生き死にを操ってよいはずがない。
母を殺してしまったという事実は、変わらずにあるのだ。
「そうではない、わたしがいる」と、そばにいてくれる槻子神はいない。人となって迎えに行くという約束も、月日が流れて大人になっていくにつれ、夢だったのではないかと思うようになっていった。
そうして、ごめんなさいと、突発的に襲ってくる激しい自責の中で、分かった。
ああそうか、期待をするから苦しいのだ。
そこから、記憶がぼやけた。自分が壊れないように、幻のようなあいまいな記憶を消し去って、自責だけが残った。
春子は震える指先で、懐から瓶を取り出した。茶色に銀のふたの香水瓶。子槻のために作った香水。
槻子神は、子槻は、約束を果たしてくれた。雨降る沈丁花の道で突然現れたのも、事あるごとに妻に妻にと迫ってきたのも、春子を知っていると言っていたのも、春子の香水をかいで微笑んでいたのも、全部、今なら分かる。
子槻は、ずっとずっと春子との約束を守ろうとしてくれていたのに。
春子はしゃくり上げていた。涙が止まらない。このままではだめだ。
このまま、子槻と会えなくなるのは。
春子は立ち上がる。『涙香』を香水瓶に流しこんで、懐にしまう。障子を開け放つと、漆黒の空気に白い月だけがあった。縁側から草履をつっかけて飛び出す。
玲は子槻を見つけられなかったと言った。
子槻がいる場所など、ひとつしかない。
月明かりに浮かび上がる、けやきの葉の紅。見上げるほどの背丈は、くすんだ鳥居よりよほど鳥居らしい。
春子は肩で息をして、けやきを背負う社を見つめた。
黒い山道は、当然のごとくすぐに走れなくなった。足を滑らせて、転んで、熊に出会わなかったのが奇跡のようだ。
春子は鳥居をくぐって社へ歩みを進める。
子槻がいるなら、ここしかない。幼い日の春子は社の向こう、けやきの向こう側へ足を踏み入れた。中つ野ではない、天野上原だ。
「お願い、つながって」
呟いていた。春子は社を越えて、けやきの枝を、幹を、紅い葉を、越えた。
眼前に広がるのは、森だ。
(違う)
天野上原は薄紫のもやに包まれていた。なぜ、ともう一度戻ってけやきを越えるが、変わらない。何度も、何度やっても同じだ。天野上原ではない。入れない。
「どうして」
声がもれる。焦りが、だめかもしれないと諦めを連れてくる。
諦めてはだめだ。考えろ。自分を叱咤する。
昔はどうやって入れたのか。昔と今と何か違うのか。子どもではなくなってしまったから? けれど大人でも神隠しにあうことはある。何か、今と昔と変わってしまったこと。分からない。分からない。
子槻がそこにいるのは、分かっているのに。
「子槻さん! いるのでしょう? 戻ってきてください!」
なりふり構わず、叫んでいた。
「戻ってこないのならわたしがそちらに行きます! 通してください!」
滑稽でも、けやきの向こう側へ足を踏み入れる。何も、変わらない。
どうして。どうして。どうして。
「子槻さんのばか!」
口をついていた。
「何も言わずにいなくなって、あげく記憶まで消して、どういうつもりですか! わたしはまだあなたのことを許してないし、わたしは、わたし、は」
息がつまった。涙と嗚咽が突き上げてきて、続けられなかった。
(わたしは、あなたに、会いたい)
涙が頬に伝って、むずがゆくて拭った。こんなことをしていても意味がない。天野上原へつながる方法を。
思ったとき、頭の中のもやが真一文字に斬られたように、晴れた。
春子は目にたまった涙を指で拭って、懐から出した透明の香水瓶の中に、伝わせ落とした。
『涙香』。涙の香り。そう名付けたのは槻子神だったか。
賭けだった。幼い日、天野上原へ入った春子が持っていた『涙香』には涙が入っていた。今持っている『涙香』には、今、初めて涙を落とした。
これで、どうか。
「今からそちらに行きますから! わたし、怒っていますから! せいぜい首を洗って待っていてくださいね!」
叫んで、弾みであふれてきた涙を感じて、春子はけやきの向こう側へ駆けた。
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