第67話 ねずみさんのおよめさん

「つまじゃなくて、お父さんじゃだめなの?」

 槻子神は不意をつかれた。そう来るとは思っていなかったのと、父ではいけない理由はないのではないか、と思ったが。

「父ではお前が嫁いだとき共にいられないだろう。夫婦が一番長くいられるはずだ。違うか?」

「ねずみさんはわたしのことがすきなの?」

「ああ。大切に思っている」

「ねずみさんがわたしのだんなさまになるの?」

「そうだ。わたしはお前を妻として迎えたいのだ」

 春子は数度、またたいた。

「ねずみさん、へんなの」

 槻子神はうろたえた。

「なぜだ? どこがおかしいのだ?」

「ねずみさんがだんなさまって、へん」

 ではどうすればよいのかと槻子神が打ちのめされていると、春子が「でも」と続けた。

「ねずみさんがだんなさまだったら、きっとさびしくない」

 春子ははれ上がった目をこすった。

「分かった。まってる。ねずみさんのおよめさんで、まってる」

 春子の表情が泣き顔のほうに振れて、こらえたように止まる。

「だからぜったい、ぜったいむかえに来てね」

 槻子神は頷いて、小さな春子の体を抱きしめた。

「ゆび切りげんまん、うそついたらはり千本のーます。ゆび切った」

 小さな指と指切りをして、春子の手を取って立ち上がった。

「春子。中つ野へ帰ろう」

 春子は顔をうつむけていたが、槻子神はそのまま春子の頭を柔く撫でた。

「これから人となるために、そちらへはあまり行けなくなるかもしれない。けれどお前の祈りの声は届くから。忘れないでほしい」

 もうひとつ、伝えねばならないことがあった。

「春子、あれを預かりたい」

 槻子神は離れた地面に置いていた香水瓶を指さした。春子は顔を上げて、はっきりと悲痛な表情で固まった。

「母から聞いたのだ。母は香りに涙を入れると、その香りに不可思議な力が現れたそうだ。お前もそうかもしれないから、力が現れたなら導いてほしいと。だからわたしが預かろう」

「でも、それ、は」

「安らかに死を与える香りなのだろう」

 春子がまた涙をこぼしてしまう前に、槻子神は思いを伝える。

「天野上原のものさえ滅したのだから、かげば神をも死に導くのだろう。作っているときに意図せず涙が入ってしまったのだろう。けれどお前は一心に、母のためを願って作ったのだ。泣いて、願って、作ったのだ。涙の香り……『涙香』。わたしが預かろう。今後、香りに涙を混ぜないよう、気を付けねばならない」

 春子はやはり涙をあふれさせてしまって、けれども小さく頷いた。槻子神は春子の涙を拭ってやって、頭を穏やかに撫でた。

 かたわらにずっと控えていたこのりに『涙香』を頼み、槻子神は春子を抱きかかえて中つ野の道を下っていった。途中から失念していたが、春子は天野上原の空気に侵されて相当体がつらいはずだった。

 薄紫のもやが漂うなか、中つ野との境界で、槻子神は春子を下ろしてしゃがみこみ、向かい合った。

「お前からわたしにくれた香水、あれをつながりとして迎えに行く。必ず、待っていておくれ」

「ぜったい、ぜったい、やくそくだから、まってるから!」

 そうして、春子は泣くのをこらえた顔で、薄紫のもやの中へ消えていった。


 鼓動が速かった。徹夜続きであれだけ感じていた疲労も、どこかへ飛んでしまった。

 春子は着物の胸元を握りしめた。

 全部、思い出した。槻子神のことも、子槻のことも、全部。

 あのあと、こちらの世界に戻ってきて、春子は熱を出して三日三晩寝こんだ。天野上原は息が苦しく、体が重かったから、人の身には毒なのかもしれなかった。

 熱が引いて、今までの出来事は全部夢だったのかもしれない、と思った。けれど母の死は変わらずそこにあって、『涙香』を作ってしまったこと、それを槻子神に預けたこと、妻として迎えに来るという約束は、覚えていた。

 だが、いつからだろう。友達や大人たちが「かわいそう」「不憫だ」と嘆いてくれるたび、春子の心は逆のほうへ傾いていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る