第66話 人となろう

「何ということを言うのだ、命を粗末にするでない! お前の母もそんなことを望んでおらぬ」

「どうしてねずみさんに分かるの? お母さんはわたしをうらんでるよ!」

「そんなわけがなかろう! あの母がお前を恨んだりするものか。お前をずっと見守ってほしいと、わたしに託していったのだぞ」

 そこで、春子は不思議なほど静かになって、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、槻子神を凝視した。

「ねずみさん、お母さんを知ってるの?」

「知っている。お前が来た嵐の日に、夢枕で会っている。お前のことを導いてほしいと、見守ってほしいと、切に願っていた」

 春子の表情が、悲痛に、変わる。先ほどまでの壊れたような感情ではなく、人の子らしい感情を宿していた。けれど。

「どうして?」

 春子の声は、とても小さかった。

「どうしてお母さんたすけてくれなかったの? あんなにたくさんおねがいしたのに」

 春子の声が、震える。細くなった瞳に涙がいっぱいになって、まばたきでぱたぱた落ちる。

「どうして? おねがいしたのに。かみさまなのに。どうしてたすけてくれなかったの!」

 槻子神は息がつまった。春子の泣く声が、深く、痛みをもって突き刺さった。

 人は皆、それを願う。神には病を治すことのできる神もいる。けれど皆の願いを聞き入れていたら人の世は均衡が崩れる。神は関わりすぎてはならないのだ。

 春子の言葉は、人の子の、子どもの八つ当たりといってしまえばそれまでだ。けれど、それならば人は何のために神に祈るのだ。何のために神はあるのだ。

 人に治せないものならば、神に祈るしかないのだから。

「帰りなさい。さあ」

 突き刺さった痛みを感じないようにして、槻子神は背を折って春子に手をさし出す。春子は激しくかぶりを振る。

「帰らない、どうして、何でかみさまはいるの、何もしてくれないのに、帰ってもわたしはひとりぼっちなのに!」

 槻子神はさし出した手をゆっくりと引いて、握りしめた。今度こそ、深く刺さった痛みはごまかせなかった。

 神であるから。けれど神であるがゆえ、自分は一体この子に何をしてあげられたというのだろう。この子は嵐のなか、槻子神が消えてしまわぬようにと、供えの香水を持ってやって来てくれた。槻子神の神としての尊厳を、守ってくれた。対して自分は春子の願いを聞き届けなかった。ひとりの人の子と深く関わってはならないと、何もしてやれなかった。

 そうして一番残酷な方法で、一番大切な人を失わせてしまった。

 春子は自らをかえりみずに、槻子神が在ることを守ってくれたのに。

 槻子神は握りしめていた手をほどいた。食いこんだ爪で、血に濡れていた。春子の前にひざをついて、同じ高さで春子の目を見つめる。

「分かった。わたしはお前のために人となろう」

 涙でぼろぼろになった春子に伝わるように、強く。

「人となって、お前を妻として迎えに行く。そうすればもうひとりではない。ずっと共にいられる。だから自ら命をいらぬなどと、そんな悲しいことをもう二度と口にしてはならぬ。生きてわたしを待っていておくれ。絶対に、迎えに行くから」

 春子はしゃくり上げながら、槻子神にぼろぼろの瞳を向ける。

「よく、分からない」

「わたしはお前と近い年の人となり、お前を妻にできる年になったら必ず迎えに行く」

「何で? 今すぐじゃないの?」

「人となるには時間がかかるのだ」

 春子の瞳が元のようにくしゃりとなる。

「今すぐじゃないなら、やっぱりひとりぼっちのままだ」

「わたしはお前を失いたくないのだ!」

 槻子神は思わず声を強めていた。春子が気圧されたように目を丸くする。

「お前の母に頼まれたからではない、わたしがお前を守りたいのだ。神のままではお前ひとりだけを守ることはできぬ。人となって、共に生きて、ずっとお前を守りたいのだ。だからどうか、わたしが人となるまで生きていてほしい。絶対に、迎えに行くから」

 春子は揺れる瞳で槻子神から目を離さなかった。やがて涙もおさまったように、まばたきする。

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