第65話 帰りたくない
このりと共に、槻子神は走っていた。子どもがひとり迷いこんできたという。それ自体はときどきあることで、中つ野では神隠しと呼ばれている。大人でも起こりうるが、何かのはずみで天野上原への境界を渡ってきてしまうのである。
それだけなら神が出ることはないのだが、迷いこんできた子どもを見たこのりが槻子神に知らせに来た。「以前おっしゃっていた香水の童に似ている」と。
神殿の裏側、ほとんど往来のない野中の東屋に、槻子神の神使と春子がいた。槻子神は叫びそうになるのをこらえて駆け寄る。神使を下がらせ、このりだけ残したところで、槻子神は腰かけている春子の両肩をつかんでかがみこむ。
「何をしているのだこんなところで! 早くお帰り。こちらへ」
槻子神は春子の手を引いた。けれど春子は動かず、赤くなった目をひらいてうつむいたまま、顔色を失っている。
槻子神の中に焦燥がつのる。人は天野上原の空気に耐えられない。呼吸するたびに体が蝕まれて、息が苦しく、体が重く、やがて死んでしまう。
春子を抱えて中つ野への道へ向かおうかと思ったとき、春子の口が小さく動いた。
「わた、し、お母さん、を」
槻子神は春子の顔をのぞきこむ。
「何と?」
春子ははれて真っ赤になった目を見開いて、唇を震わせる。
「お母さんを、ころ……ころし」
瞳に涙がもり上がって、春子の顔が歪む。そうして、糸が切れたように泣き叫び始めた。尋常ではない、慟哭のようだった。
「春子、何があったのだ」
けれど当然のように春子は答えない。裂くような泣き声が響くなか、このりも案ずるように春子を見つめている。
春子の母は肺病で先日亡くなった。槻子神もねずみの姿で葬儀を見ていた。だが先ほど断片的に聞こえた。
『殺し』と。
春子が母を殺したというのか?
ひとまず中つ野へ戻すべきだと思ったとき、春子が握りしめているものに気付いた。透明な瓶だ。
「これは? 香水か?」
春子の泣き声がいっとき途絶えた。瞳が、唇が、肩が、震えている。
「こうすい、作った……お母さん、こうすいでころしてしま……!」
壊れたように、春子は再び泣き叫び始めた。
香水を作って母を殺してしまった。そう言ったように思えた。要領を得ないが、本当にそんなことが起こりうるのだろうか。作っている途中の事故か、はたまた香水を飲んだなら人は死に至るのだろうか。考えて、槻子神は息が止まった。
ひとつだけ、知っていた。
「春子。これを貸してはくれまいか」
槻子神は感情を殺して春子の手から瓶を取った。春子から離れて木の下で風向きを確認する。瓶の中身を、野に垂らした。
果たして、時を進めているように、緑の野は香りを垂らした一帯が枯れ果てた。肩口に当たったものに天を仰ぐと、木の葉が一部茶色く落葉していた。視線を落としていくと、乾いてひび割れた幹に、薄赤い模様があるように見えた。
ねずみ姿で陰から見守った葬儀で、春子と女性が話していた。
「母の首に花模様があった」と。
槻子神はせり上がってくるえも言われぬものを飲み下して、春子のもとへ戻る。
「春子。これに何か変わったことをしたか? わたしが前にもらったものは何ともなかった。香水で母を殺したなどとは思いこみではないのか」
答えは期待していなかった。だから、最後に問うた。
「これに、涙は入ったか?」
泣き叫びながら、春子はたしかに、頷いた。
槻子神の体に虚脱感と、救いようのない痛みが広がっていく。けれどすぐにそれを抑えこむ。
「春子。帰りなさい。人の子はここにいてはならない」
槻子神は瓶を離して地面へ置く。春子を無理やり抱えようとすると、春子は手足をばたつかせて激しくかぶりを振った。
「ここにいたら死んでしまうのだぞ!」
「しんでいい! 帰りたくない!」
泣き声ではなく、春子ははっきりと発した。
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