第62話 神の尊厳を

 雨は神である槻子神をよける。力が弱くとも、元が畜生でも、まがりなりにも神なのだと、遠くのことのように思う。

 社に術をかけようと手をかざしたとき、雨風の轟音に地滑りと倒木の音が混ざった。

(崩れたか)

 急がねばと思った槻子神の耳に、今度は何かが泥の中に転んだような音が引っかかった。振り返って、息をのむ。

 大粒の雨でかすむ山肌に、春子がうずくまっていた。木がかしぐ嫌な音が響く。目の前の木が、まわりの枝を巻きこみながら倒れていく。

 その先には、春子が。

 走る。春子の体を脇に抱えて、飛びすさる。雨風に重なった倒木の地響きに振り返ると、無残に折れ曲がった木が横たわっていた。春子を社のひさしのもとへ下ろして、しゃがみこむ。

「ばかもの! 何をしているのだ! こんなときに外に出てはならないだろう!」

 泥と雨で着物も顔もぐしゃぐしゃになった春子が、怯えて肩を跳ね上げる。

「とにかく家まで……」

「だって」

 春子が雨風でほとんど聞き取れないくらいの声を発して、今にも泣き出しそうな顔をして、槻子神の目を見る。

「ねずみさん来なくなっちゃったから、ゆめでも会えないし、きえちゃったんだと思って、早く、こうすいもっていかなきゃって」

 春子の声は高く潰れて、瞳にもり上がった涙が雨でびしゃびしゃの頬にこぼれ落ちる。そうして、大きな声をあげて、泣き出した。

 槻子神は呆然と、泣きじゃくる春子を見つめていた。分からなかったのだ。なぜこんなにも春子が泣いているのか。けれど、土に水が染みこむように、槻子神の中に、広がっていく。

(ああ。こんなにも)

 神の尊厳を守ってくれるのだ、と。

 槻子神が消えても、不便に感じる者はいないだろう。卑屈になっているわけではなく、事実として槻子神はそう受け止めていた。神のあいだでさえも、元が動物の槻子神の肩身は狭かった。動物が神になるのは神聖なる龍くらいで、ねずみごとき畜生が神をかたるなど何たることかと、爪はじきにされていた。

 けれど春子は、槻子神を神として、消えないでほしいと、だからこんな嵐のなか、約束していた香水を持ってきてくれたのだ。子どもゆえの純真さからかもしれない。槻子神を神ではなく、近所の友達のように思っているのかもしれない。

 けれど槻子神にとっては、春子が今ここにいること、それがすべてで、それでよかった。

 槻子神は春子を抱きしめて、背中をゆっくりと叩いた。

「ありがとう」

 この胸を締めつける思いを、言葉で表せそうになかった。もう一度「ありがとう」とかみしめるように言って、泣きじゃくる春子の背を撫でた。

「帰りなさい。母が心配しているだろう。家まで送っていくから。これからはこんな天気のときに外に出てはならない」

 春子はしゃくり上げていて、伝わっているのか分からなかった。それでも。

「こんなにもお前が思ってくれるなら、わたしは決して消えたりせぬ」


 泣き続ける春子を抱いて、家の前まで送り届けた。別れ際、春子はねずみの形をした透明な瓶を渡していった。薄黄色の液体が満ちている。

 洗われた土と、枝と、甘酸っぱい花の香がした。


 嵐の日の夜、槻子神は母の夢枕へ立った。春子が槻子神が消えてしまうからと危険をおかして香水を持ってきてくれたことに、礼を伝えた。

 向かい合った母は、淡く笑う。

「とんでもないことです。直々にお礼をいただけるなんて。そうですか、あの子は神様とお話を」

 母は感慨深そうに目を細める。

「神様、恐れ多くもお願いがあるのですが、聞いていただけるでしょうか」

「何だろうか」

「わたしは肺病にかかっています。長くはないでしょう。どうか、春子をこれからも見守ってくださらないでしょうか」

 槻子神は驚かなかった。それは決して珍しくない話だったからだ。

「分かった」

 母は微笑んで、「神様が見守ってくださるなら、憂いがなくなります」と頭を下げた。

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