第61話 お前がいれば
春子ははにかんで、満面の笑顔になった。
「どういたしまして! でも、かみさまなのにやさしくされないの? 山の上のねずみのかみさまなんでしょう? あそこにはねずみと、きつねと、うさぎとたぬきのかみさまがいるって、お母さんが言ってた」
「そうだ。わたしはねずみから神となった身だ」
そうして、槻子神は自身の逸話をそらんじた。
昔、ある狩人がいた。狩人はこの山でねずみ、きつね、うさぎ、たぬきを乱獲し、毛皮や肉にしてもうけていた。
あるとき、「ねずみは毛皮も少ないし、病気を持っているから肉も使い物にならん」と毒づくと、夢枕にねずみが立った。
「狩っておいて何という言い草。祟ってやる」
ほかのきつね、うさぎ、たぬきも現れ、口々に「祟ってやる」と繰り返した。
信じていなかった狩人だが、その後、仕かけた覚えのない罠に引っかかりそうになったり、雨に足を滑らせて岩に頭をぶつけそうになったりして、段々恐ろしくなってきた。
そうして社をたて、もう二度とこの山で狩りをしないと約束し、四種の動物を神としてまつった。
いつしか鳥居がたてられ、槻子神はねずみとして神になったのだ。
「昔は社を訪れる人もあったが、今はすっかり忘れ去られている。神となっても、ねずみは嫌われ者なのだ。ねずみ姿で町へ下りれば、猫に追われ、悲鳴をあげられ、あげく馬に蹴られる」
槻子神は淡々と事実を語っただけだったのだが、春子は泣き出しそうに瞳を歪めた。
「ひどい、何で? ねずみさんはあんなにかわいいのに!」
まさかこんなに感情移入されると思わなかったので、槻子神はうろたえる。
春子はなおもまくし立てる。
「わたしはねずみさんが一番すき! あの後ろすがたの丸くて小さいかんじがとってもすき!」
「そう、なのか。ねずみが一等好きとは珍しい」
春子は必死な顔で、何度も何度も頷いた。そうしてはたと思い出したように槻子神を見上げる。
「ねずみさん、こうすいはすき?」
「香水……香なら知っているが」
「いいにおいのする水! わたし作ってるの! ねずみさんにもあげる。そうしたらねずみさんはきえないでしょう?」
槻子神は自分の腰ほどしかない背丈の春子をまじまじと見つめた。信じられない気持ちで、けれど何だか心が柔らかくなって、自然と口元がほころぶ。
「そうか。お前がいれば、わたしは消えなくてすみそうだ」
手を伸ばして、春子の頭へ静かに置いた。春子ははしゃいだように、とても嬉しそうに笑った。
「最近はお出ましにならないのですね」
槻子神が神殿の縁側で何とはなしに庭を眺めていると、このりがしずしずと茶を運んできた。
このりはねずみで、槻子神の神使だ。十数年前から槻子神に仕えていて、信頼のおける者だ。
「うむ」と気のない返事をして、槻子神は茶托の茶を飲んだ。
近頃ひんぱんに春子のもとへ出かけていたが、夢枕に立って以来、一度も会っていない。ひと月ほどになるだろうか。春子と言葉を交わしてから、神としてひとりの人と深く関わりすぎたかと気付いた。春子は槻子神を信仰以上に慕ってくれている。子どもの無邪気さなのかもしれないが、これ以上、神と人との距離が近くならないほうがよいだろう。もっとも、会いたいと願ってしまっているのは、槻子神のほうかもしれない。
「中つ野は嵐が来ているそうです。お社が心配ですね」
こちらは薄紫の霞のごとき空気が流れていて、影響はない。
「では雨風よけの術をかけに行こう」
「御自らお出ましになるのですか? 使いを走らせますが」
「よい。どうせぼんやりとしていたのだ」
詣でてくる者がいないため、神として行うことがあまりないのが実情だ。槻子神は紫のもやが立ちこめる中つ野への道を下っていった。
もやがさっと立ち消えて、雨が木の葉を叩くけたたましいまでの音、風のうねり声が耳をつんざく。たしかに酷い嵐だった。木々も幾ばくかなぎ倒されているだろう。
社を振り返ると、社殿もかたわらに立つけやきの大木も、しっかりとそこにあった。
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