第60話 槻子神

 結果として、童にいたずらをされることも、女人に悲鳴をあげられることもなく、槻子神は介抱を受けた。穏やかな花の香がする軟膏を塗られ、全身に布を巻きつけられて、部屋のすみに布を重ねた箱を置かれて、その中に寝かされた。落ち着かなく何度も様子を見にこようとする童を、女人が諭していた。

「ねずみさんはお休みしたいのだから、あまり見に行っては起こしてしまうでしょう?」

 箱の中にいる槻子神には、首を上げても天井のはりに映る火の橙色しか見えない。

「それに、とても珍しい色のねずみさんだから、もしかしたら神様かもしれない」

「かみさまって、山のねずみのかみさま?」

 童の声が弾む。

「そう。だから失礼のないように……そうしたらねずみさん、じゃなくてねずみさま、かしら?」

 そんなことはどうでもよいのだが。そう思いながら、槻子神はゆらゆら揺れる自分の影を見つめて、目を閉じた。


 翌朝、槻子神は日が昇る前に家を出た。女人の手当てが効いたのか、痛みはだいぶ薄らいで、血も止まっていた。親子が起き出す前に家を出たのは引き止められないためだが、このまま礼を欠くのは神としていただけない。

 その翌日、槻子神は夜中に米を三俵運んできて家の前へ置くと、人型からねずみに転じて、草の陰で夜明けを待った。

 日が昇り、女人が軒先の米俵に気付くと、童を呼んだ。

「ねずみの神様が置いていってくださったのね」

 けれど童は浮かない顔だ。草の陰から見ていた槻子神はけげんに思う。

「ねずみさんに会いたい」

 そうしてまた、泣き出しそうな顔をする。

 女人はしゃがみこんで、優しい目をして童の頭を撫でた。

「春子がよい子にしていたら、また会えるかもしれないわね」

(ああ、そんなことを言われたら)

 また来るしかなくなるではないか。

 礼をして、今日で最後のつもりだった。槻子神は荒魂だ。荒ぶることで恐怖され、鎮静させられるためにまつられた。もともと人に情はない。けれど、荒魂も神だ。人に畏怖ではなく慕われる。心のどこかで、求めている。

 恐れずに、不気味がらずに慕ってくれる人を。

 親子は家の中に戻っていった。日が幾ばくか動いたころ、童が外に出てきた。槻子神は逡巡して、けれどむだなことに気付いて、草の陰からゆっくりと出ていった。

 太陽のごとく、春子の瞳が輝いた。


 それから、槻子神は折に触れて春子に会いに行くようになった。人の姿では驚かせてしまうだろうから、いつもねずみ姿だ。春子は毎度喜んで、槻子神を撫でたり、木の実をくれたり、尋常小学校での出来事を語ったりした。

 そうして一年くらいがたって、槻子神は初めて春子の夢枕に立った。


 白いもやの立ちこめるなか、寝巻きの着物姿の春子が立っている。槻子神は身構えた。きなこ色の髪に、赤い瞳。狩衣に似た、神の白い装束。人の姿をとった槻子神を、春子はどう思うのか。

「ねずみさん?」

 目をまたたかせて、春子が見上げてきた。槻子神もまたたく。

「そうだが、なぜ分かった? まだ何も言っておらぬのに」

「だってかみの毛がきなこだから。うわあ、本当に? 本当に本当にねずみさんなの? しっぽはあるの? とってもびじんだったんだね。女の人だったんだ!」

「春子よ、わたしは男だ」

 神にもきちんと性別があるのだ。

「そうなの? きれいだから女の人かと思った」

 ほめられても、えも言われぬ気持ちだ。槻子神は思考を切り替える。

「今日はお前と言葉を交わしたくて来たのだ。ねずみのままでは通じないだろう」

「ねずみさんとしゃべれるなんてゆめみたい! わたしもずっとしゃべってみたかったの」

 邪気のないはしゃぎように、槻子神の頬も思わず緩む。

「神は信仰がなくなると力がなくなって消えてしまうのだ。ねずみは嫌われ者だから、あまり優しくされないのだ。だから礼を言いたい。ありがとう」

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