第59話 涙香
プチグレンビガラアド、シトロネラ、メリッサ、紫檀、ネロリ、溶剤抽出のバラ、パチュリ。香料はこれに絞った。あとはいちかばちか滴数を調整するだけだ。
パチュリが強すぎて土臭くなりすぎる。シトロネラが多すぎて、草の香りが前に出すぎる。ネロリは柔らかな香りなので、少なすぎるとかき消される。記憶の中の香りに近付いてくるけれど、まだ何かが強くて何かが弱い。混ざり合った形が違う。
そうしてまた手元が薄暗くなって、行灯をつけて、涼やかな虫の音が聞こえ始めて。
春子は瓶の中身をエチルアルコオルで希釈して、和紙の先につけた。振ってアルコオルを飛ばして、かぐ。鼻ももう疲弊しきっていたが、鼓動が速くなった。正確な処方がないから分からない、けれど記憶の中にある。
涙香だ。涙香と名付けた、春子が母のために作った香水だ。
九月の、蒸し暑い日だった。
槻子神はいつものように、きなこ色のねずみ姿で町へ下りた。槻子神がまつられた山から、ときどき動物姿で町に下りて、人々の暮らしを眺めるのも神の務めだった。
けれどその日は路地裏でキジトラ猫に鉢合わせしてしまい、しつこく追いかけられた。熊などは一睨みすればただのねずみではないと本能で分かるのか、襲ってこないのだが、猫にだけは効かないのだ。神をも恐れぬ豪胆さなのか、神だと分かっていても本能に抗えないのか、はたまた本当に分かっていないのか。それなので猫は嫌だ。
そうして猫に追いかけられただけならまだよかったのだが、逃げ回っているうちに大きな通りに出てしまい、女人の悲鳴があがった。「おい、ねずみだぞ」という声の中を駆け抜けたら、運悪く鉄道馬車の馬に蹴られてしまったのだ。
槻子神は血まみれになりながら、何とか山のふもとまでたどり着いた。神にも死はあるが、死ぬほどのけがではない。けれど、痛くもかゆくもないかといわれると、そうでもない。動くだけで激痛が走るし、数日間は寝こまなければならないだろう。
やれ近代化だの、列強と肩を並べろだの、この国は酷く変わってしまった。近代化の象徴たる鉄道馬車にはねられたのも、人々はもう神など必要としていない、という暗示なのかもしれない。
血の匂いにひかれてやって来たきつねを睨んでしりぞけて、社を目指して山を登っていく。もう少しでたどり着くといったところで、出会ってしまった。
今度は童女だった。まだ十にもなっていないくらいか。山の中で遊んでいたのか、格子柄の肩上げした着物を着て、肩につくくらいの髪に真ん丸な黒い目で、槻子神を見ていた。逃げてくれれば話は早いのだが、これくらいの年の童だと、いたずらにもてあそばれそうでやっかいだ。いっそのこと人型をとっておどかすか。
人をおびやかすなど何ということはない。山中にまつられた四柱はもともと動物で、荒魂だ。荒ぶったことで恐れられ、鎮められるためにまつられて神となったのだ。元は人に慈しみなどない。
血の足らない頭で考えていたら、童が恐る恐る近付いてきた。よろめいても逃げるか、威嚇するか。とっさに身構えると、童は泣きそうな顔で口をひらいた。
「だめだよ、うごかないで、おねがい」
なぜそんな顔をするのだと呆気にとられていたら、手の平にすくい上げられていた。童はそのままふもとに向かって走り始める。
(ああ、せっかくもう少しで社だったのに)
そう思いながら、飛び下りる力もなく、童の手の平の上で力を抜いた。ねずみの体は小さいが、童の手だと両方使わなければならぬようだった。
「お母さん! ねずみさんが」
童が駆けこんだふもとの家には、童を大人にしたような女人がいた。
「大変。ねずみを診たことはないのだけれど、人間と同じ手当てでよいのかしら?」
畳の卓で何かを混ぜ合わせていた女人は、槻子神を見て血相を変えた。
(何だか花やら果実やらが混じった、妙な香りのする家だ)
槻子神は布をあてられながら、なすがままにされていた。
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