第58話 あとひとり

(でも、何となく綾部さまの香りというような感じじゃないんだよね)

 ほんの少し甘やかでみずみずしいマンダリン、穏やかなバラの香の紫檀。ほのかにのぞく沈香の辛み、カカオの深み、すべてを包みこむ白檀の甘さ。

 深みがあってよい香りになっていると思うが、玲に贈る香水ならもう少し軽やかにしそうな気がする。使っている香料が全体的に落ち着いていて渋いのだ。たしかに『めいめい亭』でオレンジのチョコレイトがけをおいしそうに食べてくれたので、カカオを入れたのだが。

 あのとき、「春と呼びたい」と言われて、了承した。今は「春子」と呼んでいる人のほうが少なくて、義父母と、あとひとりくらいしか。

(あとひとり?)

 強烈な違和感があった。

(あとひとりって、誰?)

 何かがおかしい。記憶に齟齬がある? 何かを忘れている?

 しまわずにいた卓の上の手紙に目をやる。あの手紙からは涙香によく似た香りがした。

 涙香を再び作れば、思い出せるのだろうか?

 体の中に悪寒に似た恐怖がわき上がる。あの香りを作るのか? 再び?

 人を、神をも殺してしまう香りを。

 手紙を手に取る。おそらく、玲の言うとおり、違和感の正体はこの手紙のぬしなのだろう。涙香を作れば思い出せるかもしれない。けれど、それは。

 封筒を開けて、手紙をひらく。涙香によく似た香り。整った文字、覚えのない内容。そうして。

 白檀と、毛織物の香りがした。

『この香りを君とのつながりにして迎えに行く』

『もう二度と、君の前には現れない』

『さようなら。春子』

 花弁のごとき欠片が、翻った。

 春子は手紙と玲の住所を懐に入れて立ち上がった。義母に引き続き店番を頼み、足早に一番奥の部屋へ入る。畳に卓がある、春子が香水を作る部屋だ。縁側に面した障子から、午後の光が透けてくる。春子は卓について、香料の入った木箱を引き寄せた。手が、震えていた。

 白檀の香りが、毛織物の香りが、引っかかった。分からないのに、忘れてはいけないと、思い出さなくてはいけないとこみ上げてくる。涙香を作ればきっと分かる。けれど、怖い。またあの香りを作るのか? 作っても分かるという保証はないのに? 『涙を入れなければ殺す香りにはならない』といえど。

 それでも。

 痛みを、罪を、慟哭を蘇らせたとしても。

 失った欠片を、知りたい。

 息を吐いた。木箱を開けて、卓に香料を並べていく。涙香の処方は処分してしまって残っていない。『記憶の中の香り』を再現するしかない。

 紙と筆を用意する。何を入れていた? ネロリ? 白檀はおそらく入れていない。シトロネラは確実に使っている。あとは何を入れた? 何を入れれば、記憶の中の沈丁花に似た甘酸っぱい花の香に近付ける?

 香料を書きつける字が、震えている。シトロネラ、メリッサ、ネロリ、プチグレンビガラアド、紫檀。使っていそうな香料を書いては、和紙につけて複数の紙を同時に振ってかぐ。瓶の中で混ぜ合わせて、これではないと何度も捨てる。段々、嗅覚が疲弊してくる。ないと分かっていても、どこかに覚え書き程度でもないかと、涙香の調合の手がかりを捜すも、当然のごとくない。

 手元が薄暗くなってきて、行灯をつけた。義母に夕食だと呼ばれ、すっかり準備をすっぽかしていたことを詫びて、しばらく香水を作るので申し訳ないが食事はいらないと告げた。

 空腹を感じなかった。ただ作らなければという意思と、後ろに恐怖があった。

 ベエスノオトが思い出せない。それとも、最初から入れていないのか。何滴であの香りになるのか。行灯の油を足し、いつの間にか障子の向こうが明るくなってきた。まだ、記憶の中の香りと違う。香料が多いのか少ないのか、滴数が違うのか。

 心配して声をかけにきた義父母に、「申し訳ないが今日も香水を作りたいので店番に入れない、食事もいらない」と伝えた。どうも、見合い前の最後の要望と捉えられたようだった。見合いは明日だ。もう時間がない。首も肩も体中が痛い。けれど頭は覚醒して、試さなければいけないことがとめどなく浮かんでくる。

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