第57話 よく似た香り
「そうして響生は毎朝俺と校庭を走るようになったよ。『ちょうど母上ともめてしまったところだったのだ。あなたは体が弱いのだから、無理をしてはなりません、と。ならば君と毎朝走って体力をつければよい。こうなったのも何かの縁だ』と」
玲はおかしそうに微笑んでいた。
「それから俺と響生はよく話すようになった。けれどしばらくして響生が結核で学校に来なくなり、戻ってきたときには子槻になっていた。姿形は響生だったが、何しろ髪の色が変わっていたから皆遠巻きにしてしまってね。俺も最初は驚いた。でも、話してみたら変わらなかった。神様に体を渡す、と言っていたから、そんなことがありえるのかと半信半疑だったけれど、たしかに響生とは違うと思うところもあったよ。けれど響生は子槻で、子槻は響生だった。根っこの部分は同じだ。変わらず俺の悪友だった。まあ、名前が変わったくらいか。名前を変えるのもそう厳しいことじゃあないしね」
玲はいつの間にかとても穏やかに目を細めていた。
「子槻はいつも春子さんの話をしていたよ。約束をした女の子がいる。立派な帝国男児になって、その子を妻として迎えに行くのだと。毎日毎日聞かされて、さすがにうんざりしたよ。ただののろけ話だしね」
仕方なさそうに笑って、玲は春子に視線を向ける。
「何も思い出さない?」
「すみません、何も……」
恐縮した春子に、玲は額に手を当てて息をつく。
「ああいや、君に怒ってるんじゃあないよ。まったく子槻は何をやってるんだ。こんなに強力な術をかけるなら、その術で春子さんをほれさせるとかほかにあっただろう」
「そ、そういう術はいかがなものかと思いますが……」
「子槻の手紙を見てみるかい? 見せるなとは書いていないし、恥ずかしかったとしてもこれくらいの罰は受けてしかるべきだ。さあ読もう。今すぐ読もう」
玲は問答無用で春子の手に手紙を押しつけてきた。他人宛の手紙を勝手に読むのはどうかと思うが、興味がないといえばうそになるので、恐る恐る封筒を開ける。
便せんを取り出してひらいたのと同時に、体が固まった。かいだことのある香り、絶対に忘れられない、けれど、それそのものではない香りが、風に乗ってきたからだ。
沈丁花に似た甘酸っぱい香り、涙香によく似た香りが、白い便せんから、立ち上る。
「春子さん? もしかして何か思い出した?」
玲の期待に満ちた声に、春子は我に返る。
「ああ、いえ……」
目に入っていなかった文面を追うと、玲の話どおり、春子を傷付けたから遠くへ行く、春子を見守ってほしいと書かれていた。やはり知らないし、分からない。
けれどなぜ、手紙から涙香によく似た香りがするのだろう。
口をひらけないでいると、玲は出されたまますっかり手つかずになっていた卓のお茶をあおった。卓に戻された茶器は空になっていた。
「とりあえず今日のところはおいとまするよ。もし何か思い出したり、子槻を見つけたら教えてほしい」
そうして玲は軍装の物入れから畳まれた紙を出して渡してくる。ひらくと、玲のものだろう住所が書いてあった。
「手紙はそのまま持っていていいよ。何か思い出すかもしれないし」
卓に置いた子槻の手紙をさして、玲は帰っていった。
玲が帰って、とりあえず店番に戻ろうかと春子は玲の住所と手紙を手に取った。喉に物がつかえたようなわだかまりが残るが、仕方がない。懐にしまおうとすると、着物の中で硬いものが指に当たった。取り出すと、銀色のふたに茶色の瓶だ。
(あ、渡すの忘れてしまった)
お世話になった玲のためにと作った香水で、いつか会えたら渡そうと、何となく毎日懐に入れ続けているのだった。ふたを開けて、香りをかぐ。
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