第56話 存じ上げません
「子槻は君が店を閉める前に俺に手紙をよこしていたんだ。もう二度と春子さんの前には現れない、自分は神様で、自分に関する記憶をすべて消して遠いところへ行くからと。ただし俺の記憶だけは消さないでおくから、春子さんを見守ってくれと。友達がいないから、俺にしか頼めないと書いてあった」
春子は分からないなりに小さく頷く。
「そんなうそみたいな話があるものかと天野家を訪ねてみたが、本当にご両親とも子槻が最初からいないことになっている。子槻を知っている人も当たってみたが、やはり子槻という存在を知らないという。そうして最後に、君ならもしやと思って来たんだが……」
春子はあいまいに頷いたが、何も言えなかった。何の話をされているのか、見当もつかないのだ。
玲はそれでも春子を切実なまなざしで見つめる。
「子槻を捜したい。どこへ消えたのか分からないが、無責任だとあいつを連れ戻したい。手紙には春子さんに最低なことをしてしまったからとか、自分がいなくなれば春子さんは幸せになれるからとか何とか書いてあったが、あんなにほれていた相手をそんなに簡単に諦めるのかと、腰抜けなと叱りたい」
玲は顔を曇らせる。
「けれど捜しても捜しても見つからないんだ。中学校やよく行っていた店もあたってみたんだけれど、手がかりすらない。何か心当たりはないだろうか?」
春子は困り果ててしまった。どう言えば伝わるだろうかと、頭の中で言葉を選んでいく。
「ええと、ひとまずわたしはしきさまという方を存じ上げません。なので綾部さまのお話もよく分からないのです。申し訳ありません」
玲は諦めきれない様子で春子から目をそらさなかったが、ふと軽く息を吐いた。
「では俺と子槻の思い出話でもしようか。そうすれば何か思い出すきっかけになるかもしれない」
いまだに意味は分からなかったが、止める理由もないので春子は頷いた。
「子槻は……そうだな、どこから話そうか。昔は響生という名だったんだ。中学校時代からの知り合いさ。最初は特に話しもしなかったんだが、ある日、毎朝校庭を走っているところを見られてしまってね。俺は軍人の家系に生まれたんだけれど、三男だったからまるで期待されていなくてね。それで何くそと毎朝学校が始まる前に、腕立て伏せやら懸垂やらして、走って学校に向かっていたんだ。それで、仕上げに校庭を回って教室に入るんだが、そこを響生に見られてしまった。もちろん普通の時間に来たんじゃあほかの奴らにからかわれるから、かなり早い時間に来ていたのに、その日、響生もかなり早く来ていたんだね。響生は言ったよ」
「こんな時間に校庭を走っているなんて、すごいね。修行かい」
「別に修行じゃあないさ。ただの体力作りだよ」
響生は目を輝かせた。
「体力作りか! それならわたしも真似をして校庭を走ればいいのか。もしかして毎朝やっているのかい」
「いや、まあ、そうだけれど」
揶揄ではなく予想外の方向に食いつかれて、玲はたじろぐ。
「毎朝! すごいな。体力作りが趣味なのかい?」
「趣味じゃあなくて、うちは軍人一家だから、念のためさ」
ここまでくると隠しておく意味もなく、つい玲は口にしていた。
「軍人一家とはいえ三男だから、まったく期待されていないんだ。だから毎朝走ったところで、それくらいして当たり前だし、そうしたところで兄たちを越えられることもない。やって当たり前、やっても期待されることはない。ただの道化さ」
玲は軽く笑って、重い話の内容を薄めようとした。返ってくるのはあわれみか、なぐさめか。そう思って響生を見ると、響生は口を引き結んで、とても厳しい目で玲を見ていた。
「綾部玲。自分で自分をおとしめるものではないよ。たとえそれで誰にもほめられることがなかったとしても、当たり前だったとしても、君がやっていることは誇ってよいものだ。誰もほめないのなら、自分で自分をほめたらよい」
そうして響生は、ふだんの柔らかい顔立ちに戻って、微笑みを浮かべる。
「君がほめないのなら、今ここでわたしがほめるけれどね」
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