第63話 どちらの願いも
母は「治してくれ」とは言わなかった。槻子神は健康をつかさどる神ではないので、ほかの神にかけ合うしかないのだが、そういうことではないだろう。春子の父は亡くなったと言っていた。だから、人の生き死にを神に頼らないと決めているのかもしれない。
「もうひとつ、よろしいでしょうか」
今度は母自身に関することだろうかと、槻子神は「何だ」と応じる。
「春子の香水のことです」
母の表情は、真剣なものになっていた。
「わたしのことから少しお話しさせていただきます。わたしが生まれた村は、皆香料を使って生計をたてておりました。その村の生まれの者は、香料に不可思議な力を加えることができたのです。わたしは香料に涙を入れると、傷の治りを早めることができました。皆それを薬としたり、献上品としたりして生活していたのです」
母の顔が曇る。
「けれど時勢か、あるとき村は一転して気味悪がられ、焼き討ちにあいました。生き残った者はほうぼうに、わたしも流れ流れてこの地にたどり着きました。春子を授かり、あの子も香料を扱うようになって、気付いたのです。わたしの血を引くのなら、あの子も香料に不可思議な力を加えられるのではないか、と。けれどそれがどんな力なのか、何をすれば現れるのか、はたまたそんな力などないのか、まだ分かりません。だから、もし春子に香りの力が現れたら、害されることのないように、導いていただけないでしょうか」
そうして、母は気付いたように微笑む。
「ひとつめも、ふたつめも、どちらの願いも同じですね」
槻子神は静かに頷いた。
「分かった。春子を見守り、導こう」
最近、母が咳をして寝こむことが多くなってきた。「どこかいたいの? びょうきなの?」と春子が尋ねても、母は「平気よ」としか言わない。胸騒ぎがして、春子は通いの医者が帰るとき、玄関の外で母の容態を聞いた。
口ひげの医者は、どこかが痛むような表情になった。
「結核だよ。うつってしまうかもしれないから、誰か大人に来てもらったほうがよいかもしれない」
結核が何なのかは知っていた。けれど、頭の中でうまくつながらなかった。何かの間違いだと信じられないまま、母の寝ている時間はどんどん長くなっていった。
「春子、咳がうつってしまうかもしれないから、小間物屋さんのおじさんおばさんのところに行っていなさい」
「やだ! いっしょにいる!」
母は困ったように微笑んでいたけれど、春子はあふれ出しそうな不安を必死で抑えこんでいた。
「ねずみさん、どうして来てくれないの? きえちゃったの?」
山の中の社に香水を供えに行って、春子は本当にすがる気持ちで願った。
「お母さんをなおしてください。おねがいします。おねがいします」
けれど。
「春子。わたしは肺病でもう長くないの」
寝床から体を起こすこともできなくなった母に、言われた。近頃は小間物屋のおばさんが毎日母と春子の面倒を見に来てくれていた。
「うそ」
やっとしぼり出せた声は、小さいのに、静まった家の中ではとても大きく聞こえた。
「うそ言わないで、何で、どうしてそんなこと言うの?」
「迷いは、したの。けれど春子の心の準備ができるようにって」
母は咳こんで、寝巻きの袖で口元を覆った。喋ると咳が出るのだ。春子は母の枕元で必死にかぶりを振る。
「うそ! 何で? 何でそんなこと言うの? なおるよ! ねずみさんにおねがいしたもん!」
酷く咳こんでいた母は咳を押しこめるように呼吸を整えると、ゆっくりと上体を起こして微笑んだ。
「ねずみさんにお願いしてくれたの。春子は優しい子ね」
そうして、春子を抱きしめてくれた。その温かさに、涙があふれてきて、声が止まらなくなった。母の手が、背中をさすって、ぽんぽんと叩いてくる。
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