第53話 もう会えない
窓かけを引いたままの自室は、扉を閉めると暗闇になった。扉に沿うように、春子は崩れ落ちる。息が苦しい。あふれ出すように震えが蘇ってくる。思い出したくないのに、思い出してしまう。押さえつけられた体、子槻の激情、それを引き出してしまった自分の醜い言葉、縁談、店、そして。
母を殺してしまった、罪。
縁談など受けたくない。店を畳みたくない。せっかく叶った夢をどうして奪われなければならないのだ。自分の好きなように生きればいい。母はきっと許してくれる。母を殺したのは春子ではない。
けれど背中をつきとばされるように、気付く。母を殺したのは自分ではないと逃れようとした自分を憎悪する。
ひざを抱えて体を縮め、胸のあたりにある硬い感触に気付いた。それが何なのか思い出した瞬間、喉の奥から声がこみ上げてきた。涙があふれて、こらえきれず、声をあげていた。
子槻とはもう会えない。覆いかぶさられた感触が消えるまで、会うことはできない。店を畳めば、もう会うこともない。
懐に入れていた、子槻への香水。もう、渡すことは、叶わない。
食べ物をおいしいと感じないのは久しぶりだった。春子はほとんど喉を通らなかった朝食を終えて、店に臨時休業の貼り紙をしに行こうと思った。泣いて、終わりなく涙があふれてきて、やっと眠りに落ちて一夜明けたが、働ける気がしなかった。重苦しい塊に包まれながら、足裏の感覚のない足を動かす。
(ああ、でも、店を畳んだらこうやって貼り紙をすることもなくなるんだ)
連鎖のように涙がにじんできてしまって、後悔した。枯れない涙に疲れ果てて、もう泣きたくないのだ。今は何を考えてもいけない。
自室の扉を開ける。そうして、体が固まった。
廊下の壁にもたれて、白い寝巻きの長着に濃藍の羽織の子槻が立っていた。弾かれたように顔を上げる。血色が悪く影の落ちた面差しで、それでも懸命に春子を見つめる。
春子は扉を閉めていた。大きな音と共に、速まった鼓動が全身を打ちつける。
ずっと、待っていたのだろうか。眠らないで。一晩中。
「春子」
扉の向こうから、ためらった声がした。心臓が大きく波打つ。
「昨日は……わたしは本当に最低なことをした。すまない。もう二度としない。ちゃんと、君に謝りたい。謝らせてはくれまいか」
声が出せなかった。何と答えればいいのかも分からなかった。昨日、覆いかぶさった子槻の体を、力をまざまざと思い返してしまって、体の奥が震え出した。
静けさがあって、子槻はもう立ち去ってしまったのかもしれないと思った。
「また、あらためて謝りに来るよ」
体が跳ねたが、扉ごしのその声は、沈んでとても弱々しかった。
翌日から、店は開けることにした。最後の残り少ない時間、依頼されている香水を完成させて、お客さんに閉店の手紙をしたためなくてはならなかった。心をかき乱す思いが頭をよぎって集中できなくても、手を動かしていたほうが感情に支配されずにすんだ。
開店したばかりで閉店の手紙をつづることに、筆が震えて紙を引き裂きたくなったが、そんなことをしてもどうにもならない。日付のところは、あけておいた。
その日も、その次の日も、子槻は廊下や店先にひっそりと立っていて、春子を認めると謝りの言葉を口にした。けれど春子は子槻の顔を見られず、体の奥に震えを感じながら足早に通りすぎた。
それを幾度繰り返しただろう。自室での夕食のあと、扉が三回叩かれた。
「春子。開けなくていい。どうか、このまま聞いておくれ」
静かな子槻の声がした。
「いつか君の気持ちが落ち着いたら、顔を見て謝りたい。しつこくしてすまない。けれどどうしても、ちゃんと謝りたいのだ。だが、もう二度と顔も見たくないというのなら、わたしは……」
声が、痛ましく消えていく。
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