第52話 人ではないから

「わたしの、何を知っているというのですか」

 抑揚なく出てきた言葉に、子槻の表情がかすかに揺れる。透きとおるような子槻に、ひびを入れてしまう。そう分かっていても、こらえられない。

「わたしの気持ちも分からないのに、どうしてそんなことを言えるのですか」

 春子だって、本当は店を畳みたくない。泣き叫びたいほど歯がゆくて、悔しくて、悲しい。当たり前でも、一度も会ったことのない男性と夫婦になるなど怖い。

 けれどそれでも、幸せにはなれない。自分で自分を許したら、誰が罪を背負っていくというのだろう? 子槻の言うとおり、何もかも好きに、思いきり生きられたらどれだけいいだろう。

 それを、必死で抑えている。抑えている、のに。

 子槻が折れない瞳で見つめてくる。

「たしかに今の君の気持ちは分からないかもしれない。けれどわたしは君を知って」

「知っているから? ではなぜですか? 神様なのでしょう? 神様なのならどうして母を助けてくれなかったのですか!」

 自責と後悔と恨みと理不尽さが体の中から吹き出してくる。まだ消えない。ずっと、死ぬまで消えないのだろう。

「あなたと少しでも分かり合えたと思ったのが間違いでした。あなたは人の気持ちが分からない。人ではないから!」

 ぼろぼろの視界のなかで、子槻が目を見開いて、痛みをいっぱいに、顔を歪めていく。瞬間、春子の体も切りつけられたように強く強く痛んだ。分かっていたのに、傷付けずにはいられなかった。

 子槻が顔を伏せる。畳に正座していた脚が動いて、肩をつかまれた。体が固まる前に視界が回って、叫んでいた。

 背に、押しつけられる帯の感触。天井のはり、薄暗い室内、流れるきなこ色の髪、赤い目。

 目の前に見えているもので、子槻に覆いかぶさられているのだと、知った。体温が引く。腹の底から恐れがこみ上げてくる。

 春子を見下ろす子槻は、あふれ出る激情をこらえるかのように、唇を震わせていた。

「たしかにわたしは人ではない。けれどなぜ見ず知らずの男との縁談を受けるのはいとわないのに、わたしと一緒になってはくれないのだ! わたしなら君に店を畳ませたりしない! なぜだ? わたしが人ではないから? こんなに、気がふれそうなほど君のことを想っているのにどうして分かってくれないのだ!」

 子槻の声が、ただ恐ろしさを増幅させていく。子槻は苦しそうに、悲しそうに強く瞳を細める。

「もう、いっそこのまま、無理やり」

 子槻の体が、瞳が、迫る。

 毛織物と、白檀の香りがした。

 春子は力のかぎり子槻の体を押し返していた。いっぱいになっていた恐怖が破裂して、子槻のいましめから逃れて畳をまろぶ。立ち上がって逃げようとしたが、脚にまったく力が入らない。また引き倒されてしまうと懸命に振り返ると、子槻は畳の上で尻もちをついて、目を見開いていた。呪縛が解けたように、子槻の顔に動揺が走る。

「春、子」

 子槻がひざで立ってひとつ近付いてくる。途端、体の奥から震えがあふれ出した。指の先から歯の根まで、震えが止まらない。

 子槻の顔から、完全に血の気が引く。

「春、子、すまない、わたしは、何てことを……すまない、もう絶対に、絶対にしないから」

 子槻が手を伸ばしてくる。春子はただ必死で、手で体を引きずって畳の上を進む。

 子槻の手が止まった。子槻は、見開いた瞳を震わせていた。

 春子は子槻から目をそらせず、体を引きずって畳の部屋を下りた。震えて転びそうになりながら、けれども一度駆け出した足は止まらなかった。

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