第54話 君の前には現れない
分かっている。子槻が酷く後悔していることも、心の底から謝ろうとしていることも、嫌というほど伝わってくる。けれどそういう問題ではないのだ。蘇る感覚に鳥肌が立って、怖いと、恐ろしいと、心まで引っぱられるのだ。
春子は向かっていた机から立ち上がって、指先を握りしめて扉の前へ立った。
「店の、閉店の日取りはいつがいいでしょうか」
幾日ぶりかの呼びかけで、声がかすかに震えてしまった。
「あの店は、『格子縞香水店』は君の店だ。君の好きなようにするといい」
子槻の声は落ち着いているように聞こえた。
「では、来週の日曜日で、その翌日にここからおいとまします。お世話に、なりました」
扉の向こうからは何の音もしない。立ち去ってしまったのかもしれない。引き止める声もない。
「最後に、ひとつだけ聞きたい」
独り言のような声だった。
「君は、わたしがいなくなれば幸せになれるのか?」
心が、揺れた。揺らされた。何で、どういう想いで言っているのだろう。本当は店を畳みたくなどない。まだここにいたい。ここにいて、香水を作って、いい香りだと喜んでもらえて、このりとたわいない話をしたり、子槻に、子槻のために作った香水を渡したかった。
最初は問答無用で連れてこられて、あれよあれよという間に店を始めることになった。子槻は自由奔放で、自信満々で、その強引さに困惑することはあっても、いつの間にか仕様がない人だと、笑って受け入れている自分がいた。今も、恐ろしさはまだ消えないけれど、嫌悪しているわけではない。二度と顔も見たくなければ、呼びかけに答えはしなかった。
子槻は素直で、言われたことをそのまま受け止める。まっすぐで、美しい。
だからなおさら、言わねばならない。
「はい」
答えた春子のほうが、えぐられるように胸が苦しくなった。ここを去るのは、春子が決めたことだ。好き勝手に生きる道を捨てて、自ら選んだことだ。子槻と春子の人生はもう交わることはない。だから、子槻に希望が残らないように、春子が子槻と決別できるように。
「分かった。もう二度と、君の前には現れない」
心臓が、苦しい。
「さようなら。春子」
息が、苦しい。
扉ごしだから、子槻がどんな顔をしたのか分からなかった。声音も聞き分けることができなかった。もう、今度こそ立ち去っているだろう。春子は扉の前で崩れ落ちて座りこむ。
息が苦しい。胸が苦しい。喉が干上がっている。目の奥は熱くて、頬に濡れた筋が流れ落ちて、声があふれる。
どうして、こんなにも苦しくて、痛くて、涙が止まらないのだろう。
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